第6章 異常

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第6章 異常

 携帯のアラームが鳴り響く。俺は目を閉じたまま、そのアラームを止めた。どうせ5分後にまた鳴るんだ。起きるのはその時でいい。最初のアラームだろうから、おそらく今は7時15分だろう。  しかし再びの眠りは訪れなかった。意識が持ち上がっていく。俺は目を開けた。窓から差し込む朝の光に照らされた、くすんだ白い天井がぼんやりと見えている。  まあ、起きられたのならいいか。無理に寝続けることもない。ゆっくり準備でもしよう。  次第に視界が広がっていく。見える天井は広がり、隅にあるシミもやがて現れた。  違和感を感じた。何か「普通ではないもの」が視界に入ったような気がした。寝ぼけているのかもしれない。あるいはこれは夢なのかもしれない。  仰向けに寝ていた俺は、首だけをゆっくりと動かして右を向いた。そこには人の背中があった。違和感の正体は、この部屋の中に人がいることだったのだ。その「誰か」は椅子に座って、何かの本を読んでいる。  いや、違う。夢ではない。俺は起きている。そしてここは俺の部屋だ。  体が緊張で強張った。血液の流れが速くなった。意識が急速にはっきりとしていく。  誰かがいる。俺の部屋に、誰かがいるのだ。そんなはずはない。俺は誰もこの部屋に入れてなどいない。  鍵はかけたはずだ。ならばどうしてこの「誰か」はここにいる。そして、何のために。  泥棒、空き巣の類だろうか。しかしそれならどうしてここにのんびりと居座るのか。まるで俺が起きてくるのを待っているかのようだ。  サイコパスと言われる気質を持つ、凶悪な犯罪者かもしれない。だとすれば殺されてもおかしくはない。俺はどうする。行動をひとつ間違えれば、死ぬかもしれない。  動けない。物音を立てず、ただ状況を把握することしかできない。起きたことを気付かれてはならない。何をされるかわかったものではないのだから。いや、待て。アラームが鳴って、俺は起きた。奴もアラームには気付いているはずだ。とすれば俺が起きていてもおかしくはないと考えるのが普通だろう。ならばこの「誰か」はどうして本など読んでいるのか。  その時、俺はようやく気付いた。その背中は、女性のものだということに。肩までかかるほどの茶色の髪。小さな背中。ささやかな肩幅。  女。女だ。尚更わからない。いや、しかしそれなら腕力ではこちらに分がある。突然起き上がり、締め上げれば抵抗できないはずだ。  しかし凶器を持っている可能性もある。どうする。護身術や武術に心得があるならともかく、俺はただの素人だ。たとえ女が相手でも、刃物やスタンガンを持っていたら。  その時。  その「誰か」は本を閉じて、後ろを振り向いた。彼女は俺が起きたことに気付いたのだ。殺される、そう思った俺は咄嗟に起き上がり、抵抗しようとしたが。 「おはよう」と彼女は言った。 「……礼奈?」俺はベッドに座った状態で、固まっていた。 「だから礼奈って人じゃないよ。昨日も言ったでしょう」 「昨日の……」 「そう。菜々だよ」  俺はふうう、と深く、深く息を吐いた。  よかった。わけがわからないことに変わりはないが、少なくとも殺されることはなさそうだ。おそらく。  しかしそれにしてもこの女は一体何なんだ。そもそもだ。 「お前、どうやってこの部屋に入った……!」  彼女はよくわからない、という顔をして。 「優樹が私を呼んだでしょう?」  この女は何を言っている。昨日の夜、俺は夜道でこの女に話しかけられた。そして別れて俺はこの部屋に帰ってきた。混乱したままではあったけれど、シャワーを浴びてご飯と惣菜を食べて、それから寝たはずだ。こいつをここに招いてなどいない。 「お前は一体、誰なんだ」 「だから、菜々です!」彼女は少し怒っているように見えた。 「名前はわかってる。お前は何者か、それを質問しているんだ。そもそも、どうして俺の名前を知ってる?」 「それくらい知ってるよ。当たり前でしょ。それと、私は何者でもない。きっとこの世界の誰よりも」  そう言って彼女は椅子から立ち上がった。そして俺に背を向けて歩いていく。 「どこに行く?」と俺は言った。 「シャワー借りるね。昨日、シャワー浴びてないんだ」 「……好きにすればいい。タオルはそこにある」 「ありがとう」彼女は微笑んで、それからシャワールームへと入っていった。  何が何だかわからない。そしてこんな異常事態でも、とりあえず俺がこれから仕事に行かないことに変わりはない。何か食べないと。  冷凍庫の中で凍っていた食パンを1枚、トースターに入れてつまみを回す。冷蔵庫からマーマレードジャムを取り出し、それと大きな皿を1枚、机の上に置いた。ペットボトルの水を飲み、椅子に座って天井を見上げる。しばらくして、焼き終わったパンをトースターから出し、ジャムをつけて食べた。  それから煙草を吸って、吸殻を灰皿の中へ入れた。立ち上がってシャワールームの隣にある洗面台で顔を洗い、鏡を見る。寝癖はない。菜々がシャワーを流す音が聞こえた。ベッドや机のある部屋に戻って、携帯を開く。7時20分だった。  起きてから20分も経ったのか。いや、20分しか経ってないのか。どちらの感覚もある。  それからベッドに座り、手をベッドについた。  菜々。誰なんだ。どうしてここにいる。どうして俺を知っている。何もわからない。そして何よりも不可解なのは、俺自身がもう既に落ち着いているということだ。  菜々はほとんど知らない人間だ。偶然礼奈に顔が似ているだけで、礼奈ではない。ならば彼女が勝手に俺の部屋の中にいるのはどう考えても普通の状況ではない。危険な人物の可能性もある。いや、危険な人物と考えるのが妥当だ。それなのに俺は、この部屋に侵入している謎の人物が菜々だとわかってから、すっかり安心してしまっている。  シャワーを借りる? 普通じゃない。俺も俺で、どうしてそれを受け入れているのか。とりあえず追い出さなければ。  やがて菜々がシャワーを浴び終え、シャワールームから出てきた。髪が濡れていることを除けば、シャワーを浴びる前と同じ格好だった。グレーのパーカーに黒いTシャツ、それにジーンズ。ボーイッシュな格好なのに、どうしてか少女らしさがそこにはあった。 「うわ、煙草吸ったでしょ。ドライヤー、ある?」バスタオルで髪を拭きながら、彼女はそう言った。 「あるよ。洗面台のところ」 「はーい」  彼女はそれを見つけたらしく、ドライヤーの音が鳴り始めた。  俺はスウェットを脱ぎ、Yシャツを着て、ネクタイを結ぶ。それから薄いストライプの入ったスーツを着た。 「おい。俺はもう行くよ。菜々も……」  ドライヤーの音が止まった。そして菜々が洗面台から歩いてやってくる。 「それなんだけれど。私、どこにも行くところがないの。ここに居させてくれる?」 「……ああ、わかった」それが自分の口から出た言葉だと気付くのに、数秒かかった。 「合鍵、ある?」 「えっと、ある。その棚の上に」 「わかった。お仕事、気をつけて行ってらっしゃい」と彼女は言った。 「……行ってきます」  財布と携帯、鞄を持ち、革靴を履く。そして鍵をかけずに部屋を出た。エレベーターに乗り、1階まで降りる。エントランスホールを抜け、駅に向かって歩いた。突然気分が悪くなって、途中にある小さな公園のベンチに座った。時間にはまだ余裕があったから、少しここで休むことにした。  いや待て。俺はどうしてしまったのだろう。見ず知らずの女を部屋に残して、合鍵まで渡して、そして俺は出てきたのだ。  あの女は全くおかしい。そして俺も同じくらいにおかしいのだ。どうしてこれほどにあの女を信用しているのか。何の根拠もない。しかし、菜々を部屋に残しても大丈夫だと俺は確信している。礼奈とよく似た(もはや似ているというレベルではないが)見た目に騙されているのだろうか。  詐欺師。そうか、詐欺師かもしれない。俺の情報を調べ上げた詐欺師。礼奈の顔によく似た(あるいは整形のような方法をとったのかもしれない)女を用意して、俺に近付く。そして。  そして、どうするのだろう。俺にはさして狙われる財産などない。貯金だってそれほどあるわけでもないのだ。  いや、仮に詐欺師ならば、こんな方法を取る必要がない。偶然を装って、俺と彼女を出会わせるだけでいい。それだけで俺は、礼奈と同じ外見を持つ菜々に簡単に籠絡されるはずだ。わざわざ部屋に侵入して、俺に警戒されるリスクを冒すことはない。  というより、そもそも菜々が何者かなど大した問題ではないのだ。最も重大な問題は、俺が心底彼女を信用し、信頼しているということ。その理由が全くないのにもかかわらず。  ああ、だめだ。もう俺はおかしいのだ。礼奈にとらわれてしまっている。どこかのタイミングで俺は、おそらく壊れてしまった。そしてその歪みが、こうして俺の判断能力に現れた。  それならそれでいい。破滅すればいい。もしも菜々が俺にとって危険な人物だったとして、その時はその時だ。全てを奪われて、全てを失って、その時に後悔すればいい。もう、それでいいじゃないか。  理屈ではない。  俺の心はもう、菜々を受け入れてしまったのだから。
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