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第7章 ひとつめ
仕事を終え、マンションに帰ってきたのは21時を少し過ぎた時であった。エントランスホールを通ってエレベーターに乗る。4階で降りて、右奥にある玄関へと向かった。
鍵がかかっていた。鍵を取り出して力を入れて鍵を回す。
菜々は中にいるのだろうか。あるいはいないのかもしれない。しかし鍵がかかっているということは、少なくとも消えたということはないだろう。というより、合鍵を持って姿をくらませられては困る。
玄関を開けて部屋の中へと入る。照明が点いていた。革靴を脱ぐ。すると。
「おかえり」突然菜々が顔を出してそう言った。
「ただいま」
「何か食べる?」
「コンビニで弁当買ってきたから」
「そんなのじゃだめだよ」と言って彼女は口を結んだ。
「今後気をつける」
「うん」
菜々は洗面台で手を洗い始めた。俺は弁当を電子レンジに入れ、鞄を置く。スーツの上着を脱いで、ネクタイを緩める。それからベッドに座った。するとパソコンのゲーミングモニターが起動されていることに気がついた。その画面に映し出されていたのは。
「ちょっと待て!」俺は洗面台にいる菜々に向かって声を上げた。
「ん?」菜々が部屋へと戻ってくる。
「お前、これ、勝手にやったのか!」
モニター画面に映し出されていたのは、この1年俺が必死にやり込んだ『ブルーライト』だった。1200あった俺のレートは、知らぬ間に870まで落ちている。
「あ、うん。やったことなくてよくわからなかったけれど、楽しかったよ?」
「感想なんてどうでもいい! お前、これ、レートが……」
「負けてばっかりだったから、レート下がっちゃった」そう言って菜々は口を尖らせた。
「下がっちゃった、じゃないんだよ! これはな、俺が、今まで必死に……」
「今まで必死に、何?」と菜々は言った。
俺は何も言えなくなってしまった。
俺が今まで必死に上げてきたレート。1200。始めたばかりの初心者でも1000くらいはある。ほとんどの人は数ヶ月もプレイすれば2000には届く。
でも、人と比べるものじゃない。自分との戦いなのだ。どんなにレートが低くても、意味のないものなどない。最初は500だった。少しずつ、少しずつ上手くなって、ようやく1000になった。最近になって、やっと1200に届いた。レベルが低くてもいい。他の人みたいに早く上達できなくてもいい。俺は俺なりに努力して成長してきたんだ。だから俺のレートには価値があるのだ。今までそう思ってやってきた。
菜々は『ブルーライト』を何試合か遊んでみて、レートがどういうものか理解したはずだ。そして1200というレートがとても低いものであるということも。だから菜々は、俺がまさかこのゲームを長いこと真剣にプレイしていたとは思わなかったのだろう。
レートの強さを表す、称号というものがある。菜々はきっとその称号の一覧を見たはずだ。レート5000以上は英雄、4000以上は達人、3000以上は特殊部隊、2000以上は一般兵、2000未満は見習い。そしてレート1200の俺はもちろん見習い。ルーキー扱いなのだ。
でも、それでも。たとえセンスがなくとも、たとえ遊びのゲームの数字でも。俺にとっては大切なものだ。それを勝手に。
「お前なんかに、俺のレートを奪う権利があるのか」と小さな声で俺は言った。
堂々と言えないのが悔しかった。
「え? ごめんなさい。でも、そんなにレート、高くなかったから……」
「そういう問題じゃないんだよ! 俺は……!」
俺は。そうか。
俺は仕事のストレスを、礼奈にとらわれた俺の壊れかけた心を、無意味なゲームの競争に勝つことで取り戻そうとしていたんだ。それはきっと無意識のうちに。
人のレートと比べるな。比べるな。そう何度も自分に言い聞かせた。それはつまり、俺が結局、人と比べて劣等感を感じていたということ。
たとえ疲れていても、眠くても、俺はなるべくこのゲームをプレイする時間を作った。練習した。試合を繰り返した。やれどもやれども、牛歩のようなスピードでしか上達しない。知識ばかりが増えていって、それをプレイに活かすことができない。後から始めた人達が、俺を簡単に追い抜いていく。チームが負けてしまうのは、俺のせいだ。味方プレイヤーが強くなくとも、相手プレイヤーが強くとも、それは時の運でしかない。全ては自分。自分が頑張るしかないのだから。
救いを求めていたはずのゲームで、俺はさらに壊れてしまった。自分で自分を痛めつけていたのだ。それなら俺は、一体何がしたかったのだろう。何のために戦っていたのだろう。俺は、俺は。
「俺はこのゲーム、もうやらないよ。菜々が好きに遊ぶといい」
そう俺が吐き捨てた時、菜々は屈んで、ベッドに座る俺をゆっくりと抱きしめた。菜々は左手を俺の背中に回し、右手で俺の頭を撫でた。俺は驚いて、されるがままに動けずにいた。
「よく頑張ったんだね。えらいよ」と菜々は穏やかに言う。
「や、やめろ。ただのゲームの話だ」
「優樹にとっては、そうじゃなかった。でしょう?」
涙が滲んでいくのを感じた。菜々にそれを悟られないように、俺はその涙を必死に隠した。
「もういい。離してくれ」と俺は言った。
菜々は俺から離れて、そして微笑んだ。
「うん。もうこれで大丈夫」
「何を言ってる?」
「私は何者でもない。でもね、役目はある。私はそう思うんだ」
そう言って彼女は立ち上がった。それからグレーのパーカーを着て、玄関へと歩いていく。
「どこに行くんだよ」と俺は言った。
「またしばらくしたら来るよ。ああ、あのゲームね、2週間くらいしたらまたやってもいいと思うよ」
菜々はそう言い残して、外へと出ていった。部屋には俺だけが取り残される。ようやく嵐が去ったのだ。
菜々がいなくなり、普段通りに戻っただけのこと。しかし部屋の中がひどく静かに感じた。パソコンのファンが音を立てている。冷蔵庫が低い音で唸っている。部屋の中に残る音はそれだけだった。
合鍵は棚の上に置かれたまま、静かに俺を見下ろすのだった。
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