第8章 良いような、悪いような

1/1
前へ
/14ページ
次へ

第8章 良いような、悪いような

 菜々が姿を見せなくなってから、1ヶ月が過ぎた。  雨が降っていた。風はなく、小さな雨粒は真っ直ぐに地面へと吸い込まれている。窓の外は暗い。しかし街の明かりが点々と輝いていた。週末がやってきたことを街が喜んでいるかのように。  今週の仕事を終えた金曜の夜。ようやく部屋に帰ってきたところだった。スーツを脱ぎ、Yシャツと下着だけの姿で椅子に座る。インターネットでニュースを見ようとパソコンの電源を入れた。  菜々は俺を抱きしめて部屋を出ていったあの時から、全く現れなくなった。またしばらくしたら来るよ、と菜々は言っていた。しかしどうだろう、もう二度と彼女の姿を見ることはないかもしれない。それならそれでいい。あんなわけのわからない人に振り回され続けてはたまらない。  礼奈の顔を持っていて、しかし彼女は礼奈ではない。それでいながらどんどんと距離を詰めてくる。俺にとっての礼奈が、どれほど大きい存在なのかも知らずに。  パソコンが立ち上がった。デスクトップ画面が映し出される。ふと、『ブルーライト』のアイコンが目に留まった。  菜々が姿を消した日。あの日以来、俺は結局このゲームをプレイしていない。  少なくとも3日に1回、できる時は毎日。練習しなくては、練習しなくては。そう思い続けていた俺はあの日を境に、すっかりと消え去ってしまった。常に俺の中にあった焦燥感は、突然にどこかへ旅立ったのだ。  しかし、そうだ。菜々は確か。 『ああ、あのゲームね、2週間くらいしたらまたやってもいいと思うよ』  どういうことだろう。まあ、そう言うのならやってみようか。  俺はマウスを握り、ヘッドホンを装着する。『ブルーライト』のアイコンをダブルクリックした。  1ヶ月振りか。さぞ腕も落ちているんだろうな。細かく、素早い操作が必要とされるこういったゲームは、数日さぼってしまえば練習した技術を取り戻せなくなってしまうこともある。  でも、もういいんだ。楽しく遊ぶことができたらそれでいい。  試合が始まった。銃を持った自分のキャラクターが走り出す。5人の味方プレイヤーも、それぞれ敵と交戦する為に走り出していった。  違和感があった。何百回、何千回と見た、いつも通りの試合開始の様子のはず。しかし、何かが違って見えた。  なんだろう。久し振りだから感覚を忘れたのだろうか。  操作技術はやはり落ちていた。素早く方向転換をしたり、滑らかな動きができない。しかし1年もやり込んだゲームだ。ゲームの流れは頭に入っている。多少不自由でも問題はない。  味方はそれぞれ散開して場所を取り、敵との交戦に備えていた。もちろん敵の姿は見えないし、味方もまた敵に見えないように障害物に隠れている。まだ敵も味方も、誰一人として銃を撃ってはいない。撃てば銃声で潜伏場所を知られてしまう。お互い、様子をうかがっているのだ。  その時、俺に衝撃が走った。僅かな、本当に小さな音だった。敵の足音が聞こえたのだ。その足音の小ささからして、かなり遠い場所だ。しかし、俺はそれだけで敵の居場所を正確に把握することができた。  東のガレージの中に敵が1人いるのか。ということはおそらく西に2人、正面に3人だ。わかる。見えない敵が見える。どうしてわかるのだろう。こんなことは今までなかったのに。  味方に東へ突撃という合図を出し、俺は東のガレージへと向かって進んだ。それを見た味方の1人が援護に来てくれた。  東で交戦を起こす。そうすれば近くの味方と敵が寄ってくる。でも大丈夫だ。確実にこちらが有利になる。  俺はガレージの中へ飛び込んだ。やはり敵はそこに1人いた。俺の銃から、試合で最初の銃声。味方の援護もあり、その敵を倒すことができた。  正面にいた敵が近付いてくる足音が聞こえる。一旦ガレージの外に出て待ち伏せることにした。そんな戦闘の最中でも、離れた場所にいる味方が今どこにいて何をしているのか、敵はどこにいるのか、俺は全てを冷静に理解していた。  案の定、敵はやってきた。2人だった。こちらも2人。しかしこちらは待ち伏せている。圧倒的に有利だ。タイミングを見計らって、俺は敵を撃ち抜いた。  試合は圧勝だった。6-0。こちらのチームは誰1人として倒されることなく、勝利したのだ。  これは一体どういうことだろう。こんな勝ち方をしたのは初めてだ。戦場にいる12人の全てを正確に把握できていた。  最初の違和感はこれだったのか。味方がどう動こうとしているのか、すぐにわかったのだ。普段は自分の細かな操作に必死で、試合全体を把握することなどできなかった。どうして突然こんなに。いや、むしろしばらくプレイしていなかったから、下手になっているはずなのに。  ヘッドホンを外し、ゲームからログアウトした。信じられないほどの上達。理由もわからない。俺は怖くなってしまった。  皮肉だ、と俺は思った。必死に練習していた時はそうそう上達しなかったのに、いざ卒業するとなるとこれだ。まあ、時々ならまたやってもいいか。  もうわかってしまったのだ。ゲームがいくら上手くなろうと関係ない。極論、プロのプレイヤーになったとしても俺は暗闇の中で生きるのだろう。俺が救われるためには、俺の心の中に絡みついた礼奈の問題を解決するしかないのだ。  さて、ではどうしたら解決されるのか。幾度となく考えてきたが、答えは出ない。そもそも、どのような状態になれば解決と言えるのか。それすらわからない。  例えば、俺が礼奈と結ばれる。そうなればおそらく解決と言えるだろう。しかし問題なのは、それがほとんどあり得ないことだということだ。  次に。礼奈に会って、完全に振られること。俺が苦しんでいるのは、もしかすると礼奈と結ばれる可能性があったのかもしれない(あるいは、あるのかもしれない)という、僅かな希望の所為なのだ。ならばその希望を断ち切れば、解決と言えるかもしれない。  いずれにせよ、俺はまず、礼奈とコンタクトを取る必要がある。全てはそこからだ。礼奈に会って、礼奈と話す。そして俺は正しく恋愛をする。それが片思いでも、行き着く先が失恋でも構わない。恋を正しく終わらせるのだ。  礼奈には今、彼氏はいるのだろうか。いや、今に限らず礼奈が今までどんな恋愛をしてきたのか、俺は何も知らない。何もわからないのだ。  礼奈を好きになった、明確なきっかけがあるわけではない。高校生の俺は、いつからか当然のように礼奈のことが好きだったのだから。  高校3年生の夏、最後のバイトを終えた後、俺は礼奈に告白した。そして高校の卒業式が終わって1週間後、俺は礼奈とデートをした。それから7年が過ぎた。7年も過ぎてしまったのだ。  礼奈に連絡しなくてはならない。礼奈に会ってもらわなければならない。会うことは叶うだろうか。わからない。どちらにしても、連絡をしなければ何も始まらない。そう理解はしているのだが。  携帯で礼奈の連絡先を開くだけで、手が震える。動悸が激しく、目眩がする。脳がどろりと溶けたように働きを停止し、全身から汗が吹き出すのだ。文字など打てようはずがない。電話をかけるなど、できるはずがないのだ。  とはいえ礼奈と会うことができれば、きっと会話くらいはできるはずだ。緊張はするだろうが、しかし卒倒するようなことはないだろう。  だが、連絡をする、その最初を踏み出すことがどうしてもできない。そこを乗り越えるには、俺にとってはおそらく尋常ではない覚悟が必要なのだ。  7年が過ぎてしまった。まるで7年は瞬きをする間に過ぎ去ってしまったかのようでもあるし、とてつもなく長い時間だったようにも思える。いずれにせよ、その7年という時間は俺を奥深くまで閉じ込めてしまったのだ。  どうして連絡ができないのか。簡単だ。怖いからだ。怖ろしいからだ。礼奈に拒絶されることが。俺の奥底にある柱を無残に折られてしまうことが。あるいは礼奈と会って好感触だったとしても、それはそれで怖ろしい。僅かな、ほんの僅かであった夢や希望の幻想に、いよいよ本格的に取り憑かれてしまうかもしれないからだ。  しかし可能性が無いとも限らない。俺は礼奈と同じ歳で、それなりに恋愛の経験もあり、就職もしている。礼奈と付き合う、そんな夢物語があり得ないとも言い切れないのだ。それが最も俺を苦しめている。  こんなことになる前に、どうにかしておくべきだったのだ。こうならずに済む方法はいくらでもあった。最後のデートで、返事をしっかりと受け取っていたら。大学生の時、あるいは就職した時、久しぶりに会おう、とご飯でも誘っていたら。  俺が抱えているこの病は、放置していたら悪化する一方だ。時間が解決してくれるわけではないのだと気付いた時にはもう遅かった。既に自力では何もできなくなっていた。それほどまでにこの病は進行し、悪化していた。  1ヶ月前に菜々が現れるまでは、自分から礼奈に連絡をすることがこれほど難しいとは思っていなかった。連絡しようと思えばできるが、しかしなぜかその気にならない、だから俺は連絡しないのだと思っていた。  菜々と出会って、俺は礼奈の問題と向き合うことを余儀なくされた。そうして礼奈に連絡しなければならないという部分に差し掛かり、いざ連絡をしようとしたら、それができないという事実に直面したのだ。  インターホンが鳴った。  俺はゆっくりと椅子から立ち上がり、インターホンのモニターを見る。カメラはその来客と、エントランスボールを映していた。そしてその来客は。 「お前は……」 『こんばんは』と彼女はスピーカー越しに挨拶をした。 「菜々」 『そう。入れてくれる?』 「ああ」  俺がオートロックの解除ボタンを押すと、モニターの画面は消えた。  数十秒後、菜々は俺の部屋へとやってきた。紺のワンピースに、赤い靴下を履いている。何も持ってはいなかった。 「調子はどう?」と彼女は言った。 「良いような、悪いような」と俺は答える。 「それはきっと、悪くないね」 「そうだろうか」 「そうだよ」  菜々は口に手をあてて笑った。  笑うようなところがあっただろうか。そんなことを考えながら、俺は菜々の笑顔をぼんやりと眺めていた。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

25人が本棚に入れています
本棚に追加