第3章 緊張の記憶

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第3章 緊張の記憶

 俺が「底やり」という名の居酒屋に着いた時、慶太は既にそこにいた。新宿三丁目にある3階建の居酒屋で、それぞれのフロアはそれほど広くない。それなりに客が入っていて賑やかではあったが、落ち着いた内装のせいか落ち着く雰囲気があった。 「お、優樹。久しぶり」と慶太は言った。 「ああ。前に会ったのはいつだったっけ」 「さあ、忘れたな。座りなよ」  慶太に促され、俺はパーカーを背もたれにかけて椅子に座った。そこは半分個室のようになっていて、4人席であった。もちろん俺と慶太の他には誰もいない。  慶太はラグビーの経験者だ。大学で慶太と知り合った時、彼は現役のラガーマンだった。がっちりとした肩幅に圧倒された記憶が今でも残っている。もうラグビーやスポーツはしていないらしいが、それでもその体躯は今も健在だ。  慶太がドリンクメニューを開きながら言った。 「飲み物を頼もう。どうする?」 「ハイボール」 「わかった」  慶太はそう言って呼び鈴を鳴らす。すぐに店員がやってきて、ビールの中ジョッキとハイボールの注文を取り、再び奥へと消えていった。 「慶太は確か、土日休みってわけじゃなかったよな。今日は?」俺は煙草に火をつける。 「たまたま今日は休み。明日は普通に仕事がある」慶太もまた、煙草を取り出した。 「そうか。バスの事務ってやつも大変なんだな」 「泊まり勤務が基本だからさ、普通の奴にはできねえよ」  慶太は路線バスの車庫兼営業所で、事務員をしている。運行管理者だ。朝早くに車庫から出て行く運転手を見送り、日中はバスの運行管理をしながら運転手の勤怠を組む。朝早くから夜遅くまでバスは運行しているから、泊まり勤務が多いと言っていた。よくわからないが大変らしい。  やがて中ジョッキとハイボールが店員に運ばれてきた。俺と慶太は何も言わずにジョッキとグラスを軽くぶつける。無言の乾杯をした後、俺はぐいとそれを喉に入れる。それから煙草を吸う。慶太も同じだった。 「優里さんは元気にしているかな」と俺は言った。 「さあ、どうかね。俺も優里さんとは連絡してないから」  慶太は優里さんのことを、優里ちゃんと呼んでいた。しかし俺が優里さんと呼ぶようになり、いつの間にか慶太もそう呼ぶようになった。 「せっかく慶太に優里さんのこと、紹介してもらったけれど」 「本当だよ。お前ら1年くらいしか続かなかったよな」 「いや、半年も持たなかった」 「そうだったか」 「凄い人だった。大人だった」 「そうか? まあ優樹がそう言うならそうなんだろうな」 「え? 雰囲気も、話し方や考え方も、すごく大人な人だ。違うか?」 「さあ。俺は普通に可愛らしい人だと思っていたよ」  俺の頭に疑問と仮説が浮かんだ。もしかすると優里さんは、俺に対してだけ大人だったのかもしれない。しかし慶太の前では女の子だった。それはどういうことだろう。本当の優里さんはどっちなのだろう。  いや、今さら考えるようなことでもないか。もう俺と優里さんは違う道を歩んでいる。再び交わることはおそらくないのだから。 「彼女はできた?」と俺は慶太に問いかける。 「いや」 「同じだな」 「優樹はそもそも彼女を作る気がないだろ」 「そんなことないよ。急いでいないだけで」 「結構なことで」慶太はそう言ってビールを飲んだ。 「そういや、今日はどうした? 何かあったか?」 「何か理由がないと、誘っちゃだめかい」 「いや、そんなことはないけれど」 「まあ、そうだな。強いて言うなら、大学生に戻りたくなったんだろうな。たぶん」 「……なるほど」  わからないでもない。日々何かに追われ続ける今。少ない自由な時間。ストレス。一方で大学生だった時は、そうではなかった。毎日が楽しいことで溢れていて。  きっと慶太の中で、大学生の象徴として俺の存在があったのだろう。俺と慶太は大学生活でよく一緒に過ごしていたから。それは嬉しいことだ。 「優樹は、まだ好きなのか? なんだっけ、れいなちゃんとやらを」と慶太は言った。  どうして優樹はそんなにも彼女と長続きしないのかときかれ、慶太にだけは話したことがある。俺はたぶん、高校生の頃に惹かれた礼奈という人のことをまだ好きなのだと思う、と。 「……どうだろう」と俺は答える。 「何年も会ってない、そしてどうでもよくなった過去の人のことをまだ好きなのかときかれて、どうだろうって答えるやつはいねえよ」 「そうだな、まだ好きなんだと思う」 「一途なことで」そう言って慶太は煙草の煙を吐き出す。 「4人と付き合ったけれど」 「まあ性欲と愛は別物だ」 「そんなつもりじゃなかった。ちゃんと付き合った。でもだめだっただけだ」  慶太は煙草の火を消し、吸殻を指で弾いて灰皿の中へと入れた。 「で、これからどうするんだ」と慶太は言った。 「何が?」 「そいつに会ったのか。れいなちゃんに」 「いや、会ってない。高校生の時に会ったのが最後」 「連絡してみればいい。会え」 「それは難しい部分なんだ。連絡先がわからないとかではなくて、俺自身の問題として」 「まあ、優樹の好きにすればいいことだ」 「困った問題でさ。俺にとってはそう簡単なことじゃない」 「いろいろあるよな」 「ああ」  慶太はそのことについて俺が話したくないことをすぐに察したようだ。昔からそうだ。でかい図体に似合わず、慶太は空気を読むのが上手い。  自分で言っておきながら、その問題とやらが何なのか、俺にもよくわからない。別に連絡しようと思えば連絡は取れるはずだ。礼奈もおそらく関東にはいるだろうし、会うことだってできるかもしれない。でもそれは、まるで現実感がない。そんなこと起きるはずがない、起こっていいはずがないと思えてしまうのだ。  どうしてこんなにも俺は礼奈を追い続けているのだろう。そして実際には、現実的に礼奈を追うことはしないのだろう。自分でも全くわけがわからない。礼奈と最後に会ったのはもう7年も前になるというのに。  いや、7年も前のことになってしまったからこそかもしれない。だから俺は礼奈に会うことが怖いのだ。礼奈の中に俺が全くいなくなってしまっているかもしれないということが。そしてそれを突きつけられてしまうことが。 「あんまり進んでないな」慶太は俺のハイボール・グラスを見て言った。 「あ、昨日部署の飲み会だったんだ。だから今日は抑えめにしたくてさ」 「大学生の時なら、そんな甘えたセリフは出てこなかったはずだが?」 「勘弁してくれ」 「許す」  俺と慶太は笑った。  もう大学生ではない。でも俺は俺で、慶太は慶太だ。何も変わりはしない。ただそれだけのこと。  それからしばらく他愛もない話をして、俺と慶太だけのささやかな宴会はお開きになった。俺はそのままカラオケにでも行きたい気分だったが、明日も仕事があるという慶太の都合を優先した。  俺と慶太は新宿駅まで歩き、そこで別れた。りんかい線に乗り、20分ほど電車に揺られて大井町駅に着いた。そこから10分歩き、マンションへと帰ってきた。エレベーターで4階まで上がり、玄関の鍵を開ける。パーカーを脱いでベッドの上に放り投げ、照明を点けてから椅子に座ってぼんやりと天井を見上げた。  礼奈のことを好きなのだと気づいたのは、高校2年生の終わり頃だった。特に何かがあったわけではない。ただどこかのタイミングで、突然に気がついたのだ。  礼奈はどうしようもなく俺の中心にいて、俺はいつでも礼奈のことを考えていて、時折性欲がこみ上げてくる。ああ、そうか、俺は礼奈のことが好きなのだな、と。  初恋らしきものは、中学生の時に経験した。同じクラスに可愛い女の子がいて、その子と話したりすると嬉しかった。けれどもそれはその程度でしかなかったし、高校に入る頃にはどうでもよくなっていた。  つまり俺にとって、礼奈に対する想い、その切実な恋は初めての経験だったのだ。俺は礼奈のことを好きなのだと気づいた時、大きく動揺した。どうすればいいのだろう、と自問自答し続けた。いつかは気持ちを伝えなくてはならない。でもどうやって。  3年生になり、受験勉強が始まった。さして成績が良いわけでもなかったから、高校からの推薦は受けられない。勉強して一般入試で大学に入るしかなかった。  幸運にも、俺にとって勉強はそこまで苦にならなかった。黙々と知識を増やすことはそれなりに楽しかったし、シャープペンシルの音は心地良かった。  しかし問題がないわけではなかった。静かな環境で勉強をしていると、必ずどこかのタイミングで集中は切れる。そのときにやってくる礼奈の幻想だ。礼奈は今どうしているだろう、礼奈も勉強をしているのだろうか、礼奈は彼氏を作ったりしていないだろうか、礼奈は、礼奈は、礼奈は。  礼奈のメールアドレスは知っていた。しかしメールを送る用件が無ければ、メールをする勇気が出なかった。暇つぶしに私を使うな、彼女はそう考えるようなタイプだったからだ。  そしてただのクラスメイトである礼奈にメールをしなければならないような用件はあまりなかった。教室で話せばいいのだし、バイト先だって同じなのだから。  そうして葛藤と沈黙の時は過ぎ、やがて夏になった。  だんだんと受験勉強も本格化し、俺も礼奈もコンビニのアルバイトを辞めることになった。偶然なのかそうではないのか、とにかく最後のシフトは俺と礼奈の2人だった。22時にシフトが終わり、俺と礼奈はコンビニのアルバイトを終えた。  俺と礼奈は自転車に乗り、夏の夜を隣に並んで走った。蒸し暑い夏の空気を切りながら、俺と礼奈は受験勉強の話をした。それから星が少し見えたから、その話をした。礼奈は自転車を運転するのが異常に下手で、何度も隣を走る俺にぶつかった。車と接触したことも何度かあるらしかった。危ないから自転車に乗るのはやめろと何度か言ったが、礼奈はまるで耳を貸さなかった。  やがて10分ほど自転車で走り、俺の家の近くまで帰ってきた。礼奈の家はまだ少し先だった。礼奈はまたね、と言って別れようとした。  今しかない、と俺は思った。言わなければ、伝えなければ。礼奈は俺の気持ちなんて絶対に知らない。礼奈はどう思うだろう。わからない。でも、伝えなくてはならない。だから。 「待って」と俺は言った。  礼奈は自転車を止めて、俺を振り返る。 「ん?」と礼奈は言った。  星が3つ、夏の夜空に浮かんでいた。 「好きだ」 「……え?」 「礼奈のことが好きだ」  礼奈は目を見開いた。彼女は口を開けて何かを言おうとして、そして何も言わずにまた口を閉じた。俺は真っ直ぐに彼女を見つめていた。自分の鼓動が耳の中に大きく響く。周りの景色がぼんやりとしていた。  そうしてしばらくお互いに無言であったが、やがて礼奈が口を開いた。 「それは、私と付き合おう、そういうこと?」 「そう」 「私は……」 「返事は今すぐじゃなくていい。ただ、伝えなくちゃと思って」 「……うん。わかった。伝えてくれてありがとう。またね、優樹」 「また」  礼奈は再び自転車をこぎ出した。俺はそんな礼奈の背中を、ただじっと見続けていた。  結局、礼奈からその告白の返事が返ってくることはなかった。
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