メシア・ガール

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 「ん〜〜っ!おいしーいっ!」  頬に米粒を付けた少女が恍惚の表情で言う。さっぱりとした衣服はこの部屋の主のもの、先程借りた風呂場で洗い落としたおかげか、身体中に付いていた汚れはもはや見る影も無くなっている。  「おじさん!おかわり!」  少女は先程までどっさりと料理が盛られていた皿を空にして、「おじさん」と呼ばれた男に差し出す。  「はいはい……よっぽど腹減ってたんだな。また作んなきゃいけないからちょっと待ってろよ」  少女は「はぁーい」と間の抜けた声を出すと落ち着きなく部屋を見渡す。きちんと片付いた、というよりは極端に物の少ない部屋に興味をなくすと大きな欠伸をした。そして少女はダボっとしたシャツの上からでもわかる豊満な胸を突き出し、挑発するような伸びをした。その姿勢のまま男を見ても、目は合わない。男は一心不乱に料理を続けていた。  「おじさぁーん」  「なんだ」  「カノジョとかいないのー?」  はぁ。と男はため息をつくと、話を終わらせるために手で軽く空を払った。  「ははぁん。いないんだぁ」  少女は口角を上げるとイタズラっぽい顔をして立ち上がった。ふわふわとした長い焦げ茶の髪を揺らし、ひょこひょことキッチンに向かう。  「まだ出来てないぞ」  「おじさん。私がカノジョに……」  「大人をからかうんじゃない」  「なによ。まだ何も言ってないじゃない。それとも、なんかエッチなこと、勝手に想像してたの?」  少女の慣れてない挑発顔と対照的に、男は真剣な顔付きでフライパンを睨んでいる。男はため息をついた後、栓を切ったように滔々と言葉を紡ぎ始めた。  「家族は大切にしろ。家出してきたのか知らねーけどよ。ちゃんと帰んな。心配してるだろーよ」  その言葉は少女の身を硬く緊張させた。少しの沈黙の間、フライパンの上では卵の白身が弾けていた。  「いないの」沈黙を破った少女の声はか細く、湿っていた。  男は一瞬振り返る。歳相応の顔のシワが、少しだけ深くなったように見え、目の端には優しく柔らかいものを湛えていた。  「ほんとよ。大っ嫌いになって忘れたフリしてるとか、そんなんじゃないの。ほんとにわかんないの。ねぇ、おじさん。私どうしたらいいの?」  男は問いかけに応じず、ただ焦げ付き始めた目玉焼きを見つめていた。  「ねえってば…」  「なんにも覚えてないなら、あんなセリフどこで覚えたんだよ」  男は、返す言葉をやっとのことで見つけてきたかのように、重い口を開いた。  「おじさんの本」  「は?」  「見ちゃった」  「お前……いつの間に……」  「それよりおじさん、焦げてるよ」少女はくるりと後ろを向きながら言った。  「あ、あ!しまった!すまん、作り直すから」   「はいはぁーい。ねぇおじさん」  そういうと少女はキッチンの入口で振り返って、言葉を続ける。  「おじさんって、優しいね」  ふふっと笑い声が弾む。  「なんだって?」  少女の言葉はとても小さく、男は上手く聞き取れなかった。それでも少女は食卓に座りカウンター越しの男の姿を満足そうに見つめていた。  「おじさんはさ、なんで私を家に連れてきたの?やっぱりエッチなこと考えてたんじゃないの?」  「ばーか。ほっとけなかっただけだよ」  「ほんとに?」  「ほんと」  「ほんとにほんと?」  男は照れくさそうに頭をかく。  「ほんとにほんとにほんとにほんと、だよ!」  言い終わると、ふっと、心が軽くなっていく気がして少女を見た。少女と目が合うと、少女は「あははっ」と、思いっきり笑った。その笑顔は、男の心を解きほぐし、柔らかな空気で包んだ。  「じゃあさ……」  男は呆れて遮るように、食器を少女の前に並べる。  「ホレ、召し上がれ。これ食べたらさすがに終わりな、食材がなくなっちまった」  男は焦げた目玉焼きの乗った皿を自分の前に置き、二人は向かい合って座った。  「うん、ありがと……」  少女は少しだけ俯いて、上目遣いで男の表情を伺う。男は焦げた目玉焼きの苦さに顔を顰めている。次に男は水をコップいっぱい飲み干すと、ほっとしたような顔つきになって息を漏らした。少女の視線に気がつくと、さっきの笑顔を返すように、笑った。その笑顔には春の昼風のような、一方的な温さがあった。その無償の愛がタオルケットのように少女を包んでいる。そのことに気がつくと少女は顔を上げて、遮られた言葉の続きを口に出した。  「おじさん。私の、家族になってよ」  「まぁたお前はそういうことを言う」 男はあしらうように冗談めかして言った。  「違うよ。言ったでしょ。私、何もわからないし帰る場所もないの」 男は真剣な眼差しで少女を見つめる。  まるで、自分の奥の奥を覗かれているような瞳。自分というものの、最も根幹にある命の二重螺旋。それ自体を見ているような。単なる、記号としての外見や内面でなく。自分、という存在を愛してくれている。そんな瞳。  「だからさ……私を養子にしてよ。私の父親になって。もう、ひとりになんてしないで……!」 少女の声には鬼気迫るものがあった。その裏にあるのは、きっと想像を絶する不安や孤独。男は、どうしようもなく、その感傷に共鳴してしまう自分の存在に気がついた。思わず眉間にしわが寄り、かさかさの唇が歪む。  「まさか、そうくるとはなぁ」 絞り出すような声で男が言った。  「……ダメ?」  「ほらそうやって上目遣いで見るなって」  「えへへ。でもさ、私知ってるよ」 少女の顔がパッと明るくなり、唇が徐々に歪む。目尻が下がり、笑みを抑えきれないのがわかる。  「なにを?」  「おじさん……」 少女はそう言いかけると息を切って言い直す。 「いや……お父さんさ。私を見る時ね、とっても暖かい目をしてるんだよ」  「え、そうか?それとまだお父さんはやめろよ」  少女は歯を食いしばって口を大きく横に広げ、抵抗の意思を示す。  「そうだよ。私にはわかる。だって、家族がいたら、こんな感じなのかなあって思うもん」  「そうなのかなぁ」  男は微笑みながら皿の上の料理に目をやった。  「......食べないなら貰うぞ」  「うん。一緒に食べよ」  少女が食べ始めるのを待って、男も料理を口に運び始めた。  「我ながら、うまい」男は自画自賛して少女の笑いを誘う。  少女は頬に米粒をつけ、口いっぱいに料理を頬張り目を弓形に曲げた。  「ちゃんと噛んでからのみ込めよ」  少女は大きく頷くともぐもぐと口を動かした。男はその様子を、口角を緩やかに上げながら見ていた。  「俺にも、娘がいたらこんな感じだったのかなぁ」  男は誰にも聞こえない程度の声量で呟く。同時に、昔付き合っていた女のことを思い出した。はっきりとした目鼻立ちをした、少し気の強い女だった。当時米を炊いたこともなかった男は、彼女の料理をいつも笑顔で食べた。男は女を愛し、女も男を愛していたが、いつしかその関係は崩れた。そのまま新しい愛を見つけられず、気がつけばもうアラフィフだった。ふと、目の前の少女について考える。ほんとに身寄りが無いのだろうか。一体何歳なんだろう。そして、愛を忘れていた自分に、全く新しい愛を思い出させたこの少女は、一体何者なんだろう。    少女は男が用意した料理を次々と口に運び、何度も確認するように頷いた。あまりにも幼稚な作法だが、どこか神秘的な美しさを持つその動作に、男はいつの間にか目を奪われていた。作り直された目玉焼きが、皿の縁を伝って少女の小ぶりで血色のいい唇に吸い込まれていく。ちゅるんっと音を立てて消えていくのは熱々のうどん。跳ねた汁の熱さに小さく悶えてなお、次々とすする。ほかほかの米粒はひと粒ひと粒を味わうように何度も咀嚼する。野菜炒めが立てる音に、一々嬉しそうに体を揺らす……。    ごくん。と聞こえてきそうな満足気な嚥下のあと、少女は思いっきりの笑顔で言った。  「美味しいねぇ!」  男は少し目を逸らして小さく「だろ」と言った。少女の笑顔があまりにも眩しく、胸が締め付けられる。それは彼女の境遇を思ってのことでもあった。しかしそれ以上に男は、少女に対して自分が抱く感情の正体を知って、どうしようもない無力感に襲われた。  「誰かにメシを作ってやるって、こんな気持ちだったんだな」  男が記憶を懐かしむ目をして、語りかけるように呟く。  「何か言った?」  少女の問いかけに男は首を横に振った。  「あの、お前さ。名前は?」  「知らない。そもそも私って今までほんとに生きてたのかなぁ」  少女は右手に持ったフォークを宙に泳がせ、子供のように目を輝かせている。  「詩織」  「へ?」  「詩を、織るって書いて、詩織。嫌か?」  「それってもしかして、私の……?」少女の瞳が揺れる。水面に広がる波紋のように。  「あ、ああ。すまん。いきなり気持ち悪いよな……」  「ううん。嬉しいよ。私の名前。詩織……いい名前!」  「それでさ……やっぱりお前、俺の子供になれよ」男は照れくさそうに顔を真横に向けて言う。  ゆっくり上気する男の顔。  一瞬呆気に取られるも、直ぐに破顔させる少女。  二人の間には、ほんの少しの沈黙があって、二人はそれによって愛を確かめた。  「え……いいの?嬉しい嬉しい嬉しい!泣いちゃいそう」  少女が少し大袈裟に見えるくらいにはしゃいで見せる。  「お父さん。大好きだよ」  「ば、ばか。恥ずかしいだろ…」  少女の瞳は、親に褒められた子供のようにキラキラと世界を反射する。満面の笑みには、流星のような涙が降っていた。  「それにしても、独身子持ちかぁ。こりゃ一生カノジョなんかできっこないな」  そう言うと、男は吹っ切れたように笑った。     そうか。こいつはきっと、俺の前に現れた救世主だったんだ。彼女を失って、なんてことの無い世の中に疲れちまって。どうしようもないほどボロボロだった俺の世界を癒してくれる存在。  詩織の笑顔が、嬉しそうにご飯を頬張る姿が、柔らかな空気を纏った雰囲気が。その全てが俺を救ってくれた。  お前は「俺がお前を救けた」と思ってるだろうけど、逆なんだ。救われたのは俺だ。
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