温と冷

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 そんな後の祭りに、意味も無い思いを巡らせるくらいなら、もっと気を張っていれば良かったのに。 「…やっぱり」  だから頭上から声を落とされるまで、何も気づけなかったのだ。 「えっ?」  見上げた拍子に、折っていた両膝を反射的に伸ばす。その上に置いていたお弁当と中身が、それぞれ遅れてついてきた。だって、そこにいるのは。 「兼行さんやん」  私は目を見張った。どうして、こんな、薄暗いところに。  少し上下する肩と、薄く開いた唇が、彼が走ってここまで来たことを知らせる。赤っぽい髪はぼんやり墨をかぶせたように陰に沈んで、はぐれた風にてっぺんだけがそわっと揺らめく。  そう、折り返しの向こうから顔をのぞかせたのは、有名人の千早くんだったから。 「な、なんで…?」  こんな場所なんか到底似合わない。もっと、明るい場所で仲間と、光を振り撒いているべきなのに。  どぎまぎと慌てる私に遠慮がちな微笑を見せながらも、彼は一瞬だけ空を遮って隣に腰を下ろす。そして、ふうと吐いた息の大きさに、私の心臓もどくん、と返事をする。  二人並んで、小さな四角い青空を見ながら、彼はぽつりと言った。 「…ここに走って行くのが、見えたけん」  見えたから、追ってきたというのだろうか。わざわざここまで、なぜ。それを尋ねたくて、綺麗な横顔へ少しずつ小刻みに、視線を投げてもそれ以上は答えなかった。 「…あれから、あそこ通らんくなったやん」  家庭科の移動教室のことを言っているのはすぐに分かった。意識的に遠回りをして、会わないようにしていたからだ。それが私のためでもあり、彼の、ためでもある。 「…うん」  雲がゆっくり流れていく。追い越しもせず、追い越されもせず。 「…俺、毎週待っとったとに」  箸を持つ手に、瞬間的に力が入る。パチ、と控えめな音が響いた。やっぱり偶然じゃなかったのだ。待ってくれているんじゃないかって、どこかで考えてはみたものの、私はその度にひどい自惚れだとかぶりを振っていた。 「…毎週?」 「うん」 「あの、…ごめんね」  今さらながら、狭い階段に並んで座っていることに、胸の音もいい加減騒がしくなってきた。思い違いではなかったと、自覚したせいかもしれない。すぐそこに触れそうな彼の、体温が、横から私をじわっと焼きつける。そんなわけ、無いのに。干上がりそうで私はもう、顔なんて見られなくて、食べ掛けのお弁当に視線を吸わせるしか、できなくなっていた。 「…やけん、埋め合わせ」  熱くて、 「え?」  渇いて、 「急いで追いかけてきたっちゃけん、昼飯食っとらんと」  心臓が活発に鳴るほどに、鈍くなる思考。 「…ちょうだい、それ」  ランチボックスはにわかに戦慄した。驚いた私の全身がそうさせたことを、私は知る間も無い。 「えっ?」  つい、見た。真意を確かめたくて彼の横顔を、でももうこちらを向いていて、だから横顔ではなくて、引き合うようにしっかり、真っ直ぐ。私たちは互いの瞳を交換するくらいに数秒、見つめ合った。  前のときとは違う。渡り廊下のときより近く。こんな、暗くて狭くて、風も寄り付かないようなここで。ああそうか、私を焼くのは。前に感じた烈火の正体は。体温でも、赤く透ける髪でも無くて、 「え、しか言わんやん、さっきから」  直情なこの瞳。  整った顔立ちに固まってしまった私より早く、彼は目を逸らす。ちょっぴり尖らせた唇はまたそっぽを向いて、不機嫌そうに眉は背を反らす。 「ごめん…ね」  追いかけるように私も少しだけ乗り出すとすぐにまた、その瞳に捕まった。 「俺、エビフライがいい」  頬に少し、赤みが差したように見えるのは、きっと気のせい。ちゃんと確認しようにも、 「でも、これ食べ掛け…」 「いいから。ちょうだい」  ぽすっと、へそを曲げた横顔は腕に突っ込んでしまった。上から覗かせた目だけでねだってくる。犬がすねたときの仕草に似ているのが、ちょっと可愛いなんて、思っているのが知れたらきっともっと、怒らせてしまうだろうな。 「…どうぞ」  どうしたら良いか、わたわた両手を踊らせた挙げ句、ランチボックスごと差し出してみた。もちろん箸を余分に持ってくることなどしないので、手で、食べるのだろうか。 「そうやんねー…」 「え?」 「いや、なんもないよ。いただきます」  ちくりと一瞬、物言いたげな目が私を刺したけど、気を取り直してくれたらしい。そんなところも、そっくりだ。  唐突に、学ランがセーラー服をかすめた。はっと上擦る。ゼロ距離の肩、上からお弁当を覗き込むようにするから、彼の髪が目の前に迫る。近い。りんごソーダみたいな匂いがした。たぶん、ヘアワックス。爽やかなのに甘さを纏って、私の空気を占領していく。女の子とは違う香りに、攻め込まれて、くらっとする。体温が溢れる。この息を吐くだけでも、ぶつかりそう。  だから、彼がおかずを指で摘まんで、顎から上向かせた口の中に放り込むまで、私は一ミリも動けなかった。 「わ、うま!俺エビフライって、一番好きっちゃんねー」  彼は笑った。ぱっと色の粒が弾けるように、彩り熱く、顔を思い切り綻ばせた。鮮やかすぎて、目を細めてしまうほど。以前から知っていたパステルブルーの笑顔とは全然違う、少しやんちゃそうな、つい誘われる七色の笑顔。太陽が笑うときっと、こんな感じ。  ふわっとして、温かい何かにくるまれながら、全身に付いて固まった緊張が少しずつとけていく。だから私も久しぶりに柔らいだ顔をした。 「そうなの?…なら良かった」  もひもひと良く動く頬を見ていると、彼の眩しいくらいの生命力を感じる。日陰にいるのに、日向にいるよう。それでいて居心地は悪くないのだから不思議だった。彼自身がお日さまなのかもしれないと思ったら、日光の下も少しは好きになれそうな気がした。 「良かったらおにぎりもどうぞ」  ぽかぽかと、 「いやそこまではいいよ、悪いけん」  染み込んでいく、 「いいの。どうせ食べきれないから」  これが、三度目の魔法なのね。 「そうなん?じゃあちょうだい」  誰かとお弁当を食べる、今日は食べられたと言ったほうが正しいのかもしれないけれど、それがこんなに心満ちるものだなんて、忘れていた。卵焼きは、卵焼きの味がして、ナポリタンは、ナポリタンの味がする。こんなに、安らぐ。このお日さまが私に、取り戻してくれたこと。
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