雨と晴

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 先の休み時間のこと。教室へ帰る途中、それは今井が見つけた。 「あ、生徒会長」  今井の見下ろした先には一階下の、文系棟側の渡り廊下がある。少なくとも俺は、顔も知らないやつのことに興味は無いので、無視して置いて行こうとした。 「と、やっぱり。兼行さんやなあ」 「は…」  振り返ると、窓にノートをあてがってへばりつく、今井の奇行が目に入る。激しく他人の振りをしたくなる衝動を抑え、とにかくその名前を聞いてしまったからには、一人で帰るわけにもいかない。 「ほら、なんか話しとうやろ?」  促されて、窓越しに彼女を見つける。まだ物珍しさのある白いセーラー服姿に浮き立ちつつも、冬服の黒い姿が恋しくもある。彼女が男子生徒と立ち話をしている様子は確かなようだ。そいつの動くたび光る、眼鏡の細い銀色がやけに障る。あと一歩で彼女に触れそうな距離感が腹立たしい。なんだ、あいつ。もざもざと胸の辺りから這い出る、この感情のやり場が分からなくて、下唇を噛んだ。 「…兼行さんも、笑うんやな」  表情までは、雨と電灯の反射でよく見えない。俺は頭の中だけで即座に否定する、まさか本当に笑っているわけ無い。でも、連れ立って落ちていく糸滴は、俺を嘲笑うように一瞬、そんな幻を見せた。かぶりを振ると彼女の表情は流されて、その代わりに窓が見せた自分の酷い顔に、思わず目を逸らす。  今井は新発見を目の当たりにした探検家のような顔つきで、そのノートは双眼鏡といったところか。 「クールやと思っとったけど、あんな顔もするんやなあ」  ひとしきり観察を終えると腕を下ろし、再び歩き出す。 「てか、兼行さんやっぱ可愛いわ」  胸に一筋、何かすっと冷たいものが降りてきた。むしゃくしゃと煮えていたそこに着地すると、じゅわあっと嫌な感情が蒸気になって身体中、内側にこびりつく。俺以外に、そんな風に気安く可愛いとか、言わせたく無いなんて。相手は今井だぞ。  唇の痛みだけでは間に合わず、ギリリと爪を食い込ませた拳は、烈しい嫉妬と、矮小な俺自身への折檻の表れ。 「やっぱそういう意味でも口説いとうんかね?まあお似合いっちゃー、…千早?」  それを認めてしまったらもう情けなくて恥ずかしくて、逃げの一手しか残らない。今井にこの顔を見られる前に階段を降りてしまう。何事もない振りが、今は装えない。  噛んだ痕の名残を舐めて、最後の段まで来ると、目の前はかすかな明るさを持った渡り廊下。遮るものなどなく、よく見える。彼女の表情までも。 「別に笑っとらんやん」  開いた手には、四つの三日月が刻まれている。その深さが、俺も知らなかった嫉妬の深さ。 「ええ?楽しそうに話しとうやん」  難なくすぐ後ろにくっついて来ていた今井は、俺の独り言もしっかり耳に留めていた。立ち止まる俺を追い越して傾げたその頭が、ほんのりと口の端を上げて頷く彼女の顔を隠す。 「お前の目、どうかしとっちゃないと?」  あれが、楽しそうに映るなんて、笑顔に見えるなんて。今はまだ、本当の笑い方をよく知らない彼女の表情はどこか寂しく思えて、なんだか俺を見ているようだった。  でも、本物の笑顔の片鱗を、俺は、きっと俺だけはもう知っている。あの外階段で、俺だけに見せたのだから。 「で、なんで千早まで笑っとうと?」  だから違うと断言できる。この薄い笑いは、その優越感からだ。 「…べつに」  理系棟へは、その渡り廊下を先に通って文系棟を丸々横切るか、この長い廊下を突き当たりまで進んでから向こうの渡り廊下を経由するか、どちらからでも行くことができる。いつもは後者のルートで帰る。文系棟をわざわざ通る道理が無いからだ。生徒会長とやらの顔をしっかり見てやりたい気持ちは無いでは無いが、そこまでするのはさすがに幼稚かもしれないと、この一瞬では決めきれなかった。だから、彼女の姿を横目に、普段通りに足を向ける。 「…兼行さんって…」 「…会長こそ、…ですか…」  六月の濡れた空気を蛇行して、途切れ途切れに入り込む、二人の会話。それがまた俺をざわつかせる。優越感だけでは埋め合わせられなくて、こびりついて取れない汚い感情が、堰を切って乱れながら膨らむ。破裂しそうだった。ただ、話をしているだけじゃないか。俺は彼女がその声を聞かせる相手にいちいちこうやって嫉妬しなければならないのか。なんて貧しい器。俺以外の奴に発せられる彼女の言葉一つ、声ごとすべて、勿体無くて渡したくない。渡したくない。 「くっそ…ッ」  ガアーッン、と、力一杯にドアを叩き開ける。長い廊下に轟いた。何が幼稚な真似はできない、だ。物にしっかり当たっているじゃないか。嫉妬深くて狭い心の、子供じみた俺。  身体の中でいっぱいに膨張した感情で、苦しい。こんなに荒く引き千切りながら、満たされない欲を吐き捨てていかなければならないのか。訳の分からないくらいの嫉妬、罰当たりなほどの強欲。こんなになって、やっと、きちんと自分の気持ちの大きさを認識する。  彼女が、好き。 「…なんで今度は怒っとうと…?」  勢いよく跳ね返ってきたドアに潰されながら、今井が後ろでか細く呟いていた。
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