雨と晴

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 梅雨の時期、ご覧の通り俺は明らかに荒んでいた。彼女は雨の日にはあの場所に来ないから。だったらどこにいるのか尋ねればいいのだが、しつこい男だと思われるのもまた嫌だった。  姿を見たくても、文系棟まで足を運ぶ気にはなれなかった。勇気が無かったと言えば良いのだろうか。また知らない奴と、生徒会長と、話をしているところを見でもしたら、分厚い窓ガラスも殴り割ってしまいそうだった。嫉妬。ただそれだけが、雨を溜め込んで醜く嵩を増していた。  そして久々に晴れた今日、やっと彼女の隣に座ることができる。濁った水は捌け始め、俺もいくらか落ち着いた。ここでいつもそうしているみたいに座って、俺を見る彼女の顔を見たら、なんだか浄化されたみたいに、こびりついていたモノが塵となって消えた。それも一瞬で。 「…兼行さんって人見知り?」 「…うん、たぶん」  我ながら現金だ。でも、この強欲は手が付けられない。彼女への気持ちをはっきり自覚した今、彼女を傍に感じるだけではもう物足りない。満たされない。早く満たされたいのに、何度こうしていても、彼女はあれ以来片鱗すら見せてくれないから。俺だけに笑って欲しいのに。こんなに入手困難だとは思いもしなかった、欲しくてたまらない、本物の笑顔。 「じゃあ仲良くなったら、笑ってくれると?」 「えっ?」  彼女は卵焼きを半分に割ったところで、目を丸くしてちらりと俺を見た。もっとこっちを向いて欲しくても、毎回彼女の顔は途中で止まる。これ以上は進めないと、線を引かれているように。 「…私、そんなに無表情かな?」 「いや、…そうやないけど」  自分が訊いたくせに何と説明したら良いか分からなくて、中身の無い返事になる。彼女は何か考え込んでしまったようで、掴んだ卵焼きは口に入る前に落っこちた。根が、真面目なんだ。俺の言葉で彼女を悩ませてしまうことに、罪の意識と、少しの満足感。 「じゃあ…」  俺の一言に囚われた彼女を解放してやるのも、俺の役目だ。その自負を独占して、いびつな欲を満たして積み上げる。もう汚いモノが生み出る隙間のないくらいに。誉められたことじゃないってことくらい、分かっている。 「兼行さんって休み、何しとうと?」  俺が質問を変えると同時に、彼女は卵焼きにリトライしていた。今度は無事に入った。慌ててもぐもぐと両頬を動かして、急ぎ飲み込んで返事をしてくれる。 「特には、っ何も」  今井は彼女のことをクールだと言うが、俺はこの一ヶ月足らずで、それは違うと感じていた。律儀で、健気で、控えめな女の子。クールに見えるのは、思いを上手く表情に出せないから。その分きっと、人より色んなことを考えている。俺のあんな一言にでも、ああやって思いを巡らせるのだから。彼女のそんな本質を知るのは、俺だけでいい。 「どっか出掛けたりせんと?」 「ん…たまに、お兄ちゃんに付き合って買い物とか」 「え、お兄ちゃんおるん?」 「うん」 「そうなんや、絶対イケメンやろ?」 「えっ!?分かんない、けど…」  少し考えるような悩むような素振りを見せる。彼女はぎゅっと、箸を握る手を持ち上げて、 「…千早くんには、敵わないよ」  桃色に滲んで俯いた、その口元に引き合わせた。  彼女の照れた言葉。その唐突な破壊力に、俺は瞬間、固まったと思う。俺の心に敷き詰めた、歪んだピースがすべてひっくり返され、代わりに綺麗な何かが流れ込む。  可愛い。長い睫毛の震える輪郭と、みるみる紅潮していく頬に、のぼせ上がったこの頭では、それ以外にもう何と言ったら良いのか分からない。どくどくと早鳴りの心臓を宥めつつ、それでもしっかり確認したかった。あとは、ちょっぴりの嗜虐心。 「それって、俺のこと、カッコいいと思ってくれとうってこと?」  彼女が俺のことを考えてどれだけ紅を広くするか、見たい。俺のことだけ、考えさせたい。とは言え、俺も赤みを抑えられている自信はなかった。こんなことを尋ねながらそんな顔を見せたのでは格好がつかないから、頬杖を付く振りをして広げた手のひらで、口も頬も丸ごと覆った。  彼女は何度も睫毛を下に上にと落ち着かない様子で、僅かに小さく顎を引くと、 「…うん」  真っ赤な顔で、もう一段階しっかりと頷いた。 「マジで!?へへ、やったあ」  格好がつかないとか、そんな些末事は瞬時に吹き飛んだ。きっとだらしなくゆるみきった顔をしているに違いない。せっかく、格好良いって、お墨付きを貰ったのにだ。  舞い上がった勢いで、強欲な俺がさらに身を乗り出してくる。もっと欲しいと、彼女との時間を欲しがった。それに突き落とされるように前のめりになる。 「…じゃあ今度の休み、遊びに行かん?」  彼女は一度瞬きをすると、今度は目を開かせた。 「えっ、でも、もうすぐ期末テストだよ?」 「ああ、…そーやっけ」  体のいい拒絶なのか、勤勉な彼女の素直な反応なのか量りかねる。とにかく断られてしまった。一瞬浮いた身体は、ずう、と重くなる。落ちそうになりながら、数秒前の俺を責める。欲張ったからだ。言わなければ、良い気持ちのままでいられたのに。 「あっ、えっと…」  そんな俺を引っぱり上げるように、慌てて彼女は脇に弁当箱を置くと、スカートを撫でて座り直す。両手を、揃えた膝に乗せた。 「終わったら、…行こう?」  おずおずと、ちょっとだけ傾いだ顔は、しっかりこちらを向いてくれた。小さく結んだ唇から彼女の精一杯を感じる。可愛くて、嬉しくて、もう。 「…絶対な!」  全ての枷が外れたように、俺は笑った。自分で笑っていると実感する瞬間って、こんな感じなんだと、慣れない感覚がくすぐったい。だってすごく、嬉しかった。彼女が、行こうと言ってくれたのだから。そうしたら彼女も、ゆったりと頷いて、 「うん!」  柔らかく微笑んだ。  それは欲しかった、笑顔の欠片。睫毛の一本一本は繊細にお辞儀をして、穏やかに細めた目元一帯に染みた薄紅が、ほんのり奥行きを生ませて。集めればきっと、弾けるような本物の笑顔に会える。そんな予感を確かにこの手に握りしめた。  俺は安らいでとうとう、綺麗で、あたたかなものに埋め尽くされる。瞬間満ちた。身体いっぱいに味わわせた。こんな気持ち、この先重ねていったら、俺はどうなるのだろう。焦れったい。さっさとテストを飛び越えて、目の前の彼女を、すべてを、早く独り占めしたいのに。
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