強と弱

1/4

63人が本棚に入れています
本棚に追加
/49ページ

強と弱

 雲も厚みを増してきた、七月の午後。まだ日は高い。私は、ふう、と息をついた。  最後の試験も終わり、周りの皆は、これからどこへ行こうかなんて話で盛り上がっていて、早々に鞄をひっ掴んで駆けて行った人もいる。無理もない。だってこんなに良い天気。自らの白いセーラー服に跳ね返る日差しが眩しいほどだ。目を細めるのは、嫌だからじゃない。私は最近、日の光が、ちょっと好きになってきた。 「あ、兼行さん」  呼ばれて、声の主を探す。次々流れ出ていく人達を塞がないよう、その都度道を譲る影。遠慮がちにドアから姿を覗かせたのは、 「会長?」  一学年先輩の、彼だった。頷くように会釈をする、眼鏡の奥の両目は柔らかく下がっていて、穏やかな人柄がよく滲み出る。 「ごめん、教室まで」  鞄を整理していた手を止めて急いで歩み寄る私に、すまなそうに声を投げてきた。 「どうしたんですか?」  あちらこちらに目線を散らかしながら彼は、右手を腰の下で拭う。 「今から、時間ある?」 「はい…?」  そして左手も。 「えっと、実は、生徒会室まで…」  来てほしいと促され、教室から一歩出たところだった。 「あ、平岡くん!」  廊下の向こうからやって来るのは、このクラスの担任の、守口先生。 「あ、はい!」  会長の返事を聞くと、豊かな白髪をふわりと弾ませ、手を上げた。速度を少しも変えずに歩いて来る。 「丁度良かったよ。預かっていた小論の添削、できたから今から職員室、来れるかね?」 「今から、ですか?」 「うん、僕、この後会議だから。月曜日になってもよければいいんだけど、こういうのは早いほうがいいと思ってね」 「…そうですね、じゃあお願いします」  彼は、少し思案したが提案を受け入れた。私に軽く頭を下げると、目尻もさらに下げた。 「ごめん、兼行さん。また今度にするわ」 「はい。お疲れ様です」  私もぺこりとお辞儀をして、二人の後ろ姿を見送った。帰ろう。振り返り、すっかり静かになった教室に一歩踏み入れ直すと、人影がひとつ。逆光で黒くなっても劣ることのない存在感。こちらに強い視線を投げる彼女と、目が合った。刺し込まれるプレッシャー。いたたまれなく、私はすぐ逸らしてしまう。それが悪手だと分かっていても。 「兼行さんって、」  だから間髪入れずに縫い留められた。 「生徒会長と仲良いんや?」 「えっ…」  思わぬ指摘に肩を震わせた。 「なんだ。有紗、勘違いしとった?」  彼女は机に腰掛け、ずっと私を見ていた。脚を組み、きめの細い肌が余計に露になる。いつものように綺麗に巻かれた長い髪を、くるくると弄びながら笑っていた。でも、笑っているように見えなかった。 「てっきり、有紗のこと出し抜いて、千早くんに言い寄っとうと思っとったけんさぁ」  迫る、闇の声。かたちを持たないそれは真正面からぐんと距離を詰め、痛いほど冷たい息を吹き掛け、私の肩をトン、と、 「生徒会長と付き合っとうなら、そんなんありえんもんね?」  潰す。 「そんなっ…」  白薔薇は赤く塗れ。鼻の先に、赤いペンキがゆらゆら迫る。仰け反るようにして、すんでのところで首を振る。 「え、違うと?じゃあなんであんな親しげなん?」  それを見て、一層闇色を深くする女王の声。 「親しいってほどじゃ…」  確かに、生徒会の仕事には雑務もかなりあるので、生徒会室で過ごすことは多い。必然的に、会長と過ごす時間も。だとしても、それが彼女の言うような関係とは直結しない。  それを説明しても、無駄だろうということはもう、前の一件で分かりきっている。赤いペンキを塗れと言われたら最後、塗らない選択肢は無いから。 「ええ?だって今も楽しそうに話しとったやん」  楽しそうに。私が。  千早くんと過ごす時間は、とても好き。学校にいるのに楽しい、唯一の時間。彼は私に、仲良くなったら笑ってくれるか、と問うた。それはつまり、私は笑えていなかったということ。それなのに会長と話すときは、楽しそうにしていたなんて。白なのに赤で、赤なのに白。あべこべ過ぎて、悔しい。違うのに。本当は違うのに。  否定しないと。その刷毛を押し付けられる前に。 「そんなことな…」 「そうやって、千早くんにも色目使ったっちゃろ」  だけど遮られてしまう。上から押さえつけられて、全うできなかった言葉は、最初から無かったことになる。 「そんな…!」  もうほとんど悲鳴だった。声を上げても体を弾いても、どんどん赤に汚れていく。どうしてこれほどの憎悪で塗り潰されようとしているのか、私は、ちゃんと知っている。だからこそ向き合わなければいけなかったのに。強い力に尻込みして、弱さを楯に取って私は逃げていた。隠れてこそこそしていた。後ろめたさを、自覚していながら。  今は逃げないで。 「違う、」  ちゃんと彼女の目を見て。 「私は、」  私が短い声を発するたび、 「私もただ…」  彼女の両目も長く切れ味を鋭くする。 「千早く」  ガタターッン。震えるくらいの音が、乱暴に引き千切った。誰かの机が横倒しになっている。私は驚きに言葉を飲み込んだ。 「…千早くんとしゃべりたい子は、みんな有紗のグループに入っとうと」  彼女は突き出した足をゆっくり折り曲げて、元に戻す。何が起きたのか、それを見る間にじんわり理解する。蹴り飛ばされた机からは教科書が派手に吐き出されていた。  彼女の言うグループとは恐らく、メッセージアプリのトークメンバーのこと。正常では無い目の前の景色と、剥き出しの敵意にチリチリと晒される今、私にはそれが絶対王政のひとつの国のようにしか思えなかった。 「千早くんと何を話したか、誕生日には何をあげるか、ちゃんと報告してくれとうし」  彼女は脚を組み替えると、長い髪をひと掻きした。 「有紗が一番千早くんに相応しいって、みんな分かっとうから。ちゃんと弁えとうと」  スタン、と美しい女王は机から降りた。整った螺旋を強調する髪は、その動きに弾み合ってざわめいて、揺れて揺れる。 「千早くんと話したいんやったら、有紗のグループに入れたげる」  横たわる机を跨いでゆっくり、私に向かって歩いてくる。ぐらぐらと煮えたそれを、こぼさないように。 「やけん、兼行さんも弁えて」  鼻筋の通った彼女の綺麗な顔は、なりふり構わず歪んでいた。 「入らんとやったら、」  それでも真っ直ぐ射抜かれた。 「千早くんに二度と近づかんとってッ!」  張り裂ける声と、質量を持った、光る粒。髪を乱しながら、彼女が顔を激しく震わせるたび、キラキラと散らばる。その様を間近に見て私は、吸い盗られるように全身の力が抜けてしまった。  彼女はそのまま顔を隠すように下を向き、私に尖らせた肩をぶつけて走り去っていく。ぱたぱたと、上履きが廊下を蹴る音が、少しの間漂う。涙の飛沫と一緒に。
/49ページ

最初のコメントを投稿しよう!

63人が本棚に入れています
本棚に追加