澱と澄

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 話は数ヵ月前に遡る。  気まぐれの産物だった。全校生徒が講堂に集まるよう指示されるときは大抵、俺は保健室だか図書室だかへ隠れる。生徒総会があると言われたこの時だって最初は、寒いし、だるいし、ぬくぬくと保健室のベッドで寝ていようかなんて考えていた。でも、そうしなかった。 「この前からあったやろ、目安箱。生徒会室の真ん前に!」  喧しい声がそう言うが、知らないものは知らない。俺はそういうことに興味が無かった。誰か、ぎゃんぎゃん吠える、躾のなっていないこいつを黙らせてくれ。 「はは、今井ー、無駄なことしとらんと行こうや」 「千早がこんなん来るわけないやんか」 「そーそー。まあたまには…ないか!」  クラスメイトがぎゃははと笑いながら団子になって出ていく。その通りだと思いながらも、うるさい黙れとも言いたくなる。我ながら難しい年頃だ。 「千早くんが保健室行くとやったら、有紗もそうしよっかなー?」  その流れに逆行する彼女は、俺の机に勢いよく両手をついた。巻き髪が瞬間、鼻の先まで迫る。なるべく顔に出すまいと努力はしているが、今のは自信がない。とにかく保健室はバツ、と頭で二筆走らせた。この手合いは、好かない。  各々がまばらに移動を始める数分間、廊下、教室、隣のそのまた隣の教室まですべて、普段よりうねりを持ったざわめきに飲み込まれる。広がりながら響く、これがぱらぱらと無くなっていって、最後の一鳴きの余韻も消えて、訪れるシンとした瞬間。俺はそれが気に入っている。今日もそれを愉しむつもりだった。 「今井くん」  生徒たちの波に運ばれながらやって来た担任教師は、息継ぎするようにこの教室へ顔を覗き込ませた。 「講堂ついたら人数かぞえて僕に報告ね」 「了解っすモッサン!」 「五分前行動だよ」 「はーい」  このだらしのない眼鏡の学級委員に指示を飛ばすと、教師はまだ残る生徒を追い出しにかかる。 「ほら北川さんも、早く出ないと鍵、締められないよ」 「…はあーい」  垂れ下がる巻き髪を、俺の机の上でだるそうに揺らめかせて、彼女も教室を後にする。 「つうことやけん、そろそろ行かな」  そう言って今井は俺をじっと見下ろす。 「…何なん?」 「早くせんと間に合わんよ」 「やったら、行けば?」 「また一人足りませんって言わんといかんと?」  そろそろ人波もおとなしくなってきた。俺たちは睨み合ったまま、とうとうこの教室で最後の二人になる。今井は俺に首輪でも着けてやろうかという顔で、譲る気は無いらしい。また煩く吠えられるのも面倒だ。保健室は使えない、図書室もこの時間はまだ寒い。勘定を終えた俺は重い息を吐ききると、机に軽く手をつきながら立ち上がる。 「…」 「ちょっ!待ってー!」  無言で、開いたままの教室のドアから出ると、俺は流れの最後につけた。慌てた今井が鍵を掛けながら背中へ声を投げてくる。 「戸締まりあるっちゃけん!千早ー!」  ガチャコガチャコ。響くのはもう、古い鍵を掻き回す音だけ。焦って余計に手こずる今井を、角を曲がった先で、仕方がないから待ってやった。
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