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講堂の入口は閉じられようとしていた。教頭にじろりと睨まれながら内へ入ると、生徒は全員着席を終えていた。気まずさの中で、控えめな喧騒だけが唯一の救いだ。今日はシューズ履き替えによる混雑を避けるため、床は全面にシートが敷かれていた。独特のまろやかなビニールの臭いが鼻をつく。俺が普段こういう場に出ないのは、これが嫌だからでもある。
顔をわずかにしかめながら、上履きのまま段差に足を踏み入れると、後ろからパタパタと走る足音が近づいてきた。
「あっ先生!すみません!」
何やら大量に紙ファイルを抱えた女子生徒が、教頭に頭を下げながら、閉まりかけの重いガラス戸を体で押してすり抜ける。隙間に挟まった白い吐息は、その後ろで半分に割れた。
なんだよ、俺たちのときとは随分態度が違うじゃないか。厳めしい顔つきを一瞬ゆるめた教頭に、内心で毒づく。彼女は急ぐ道すがら、まだこんな所にいる俺たちへ一瞬だけ、驚きの視線を向ける。そしてすぐ、逸らす。だから段差を注視しなかったのだろう。
「ひゃっ!」
パアーッン。盛大に躓いて落としたファイルは、面を叩きつけるように床へ落ちた。響きやすい構造のこの建物で、見事な爆音を演じてみせる。生徒たちの目が一気に集まった。
「ああ、大丈夫?」
こういうとき、今井は行動にそつが無い。さっとそれを拾ってみせると、まだ粗相の残響に縮こまる彼女を、声色だけで気遣える。
バランスを崩しながらも幸いこけることはなく、ふっと息をつく唇。俯いた睫毛が長く、ゆるく、弧を描いている。俺の両の瞳はそこからなぜか動けない。
彼女は今井から落とした物を受け取りながら、さっと睫毛を上げた。
「すみません、ありがとう」
はっとした。薄紅をふたつ落とした白磁の肌に、長い睫毛の下の清廉、媚びない唇の頑な。
俺が彼女の顔をちゃんと見たのはその一瞬だけだ。でも随分長いこと、釘付けにさせられた気がする。ちょん、と首だけでお辞儀をしたらそのまま、彼女は壁際をステージ方面へ走って行った。黒いセミロングの上を光が滑りゆく様を見つめながら、今しがた焼き付けた、まだ幼さを残す顔立ちに、おそらく同級生だろうと思った。
「うわ、兼行さんと話したった」
突き出した口を開いたまま興奮を隠しきれない今井が、肩を二、三度跳ねさせた。しかし教頭の圧を感じて、俺たちも小走りでクラスの列へ向かうことにする。
「カネユキさん?」
「一組の、クールな美少女やね。知らんと?」
「知らん」
「本当お前は…もてとうくせに腹立つわ」
端に空いた並びの席につく。今井は慌てて人数をかぞえようとするが、その先の担任教師の呆れた睨みに、しぼんだように座る。
「やば、モッサン怒っとる」
「で?」
「でって、千早のせいやけんな」
「…は?」
「は、やないやろ…もおー」
そうやなしに、と言おうとして遮られた。司会の生徒の、マイク越しの声が一際大きく、裸の声たちを圧縮する。生徒総会の始まる合図だった。
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