エピローグ:and go on

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 今日は一斉の、衣替えの日だった。もちろん俺も忘れていたわけではなく、きちんと学ランを着て登校しているのだが、ここに来るまでは特段何も感じなかった。本当の意味で秋を実感したのは、やっぱり、 「なんか懐かしい、それ」  彼女の黒いセーラー服姿だった。 「…私もそう思った」  俺が好きになった彼女も、渡り廊下で初めて言葉を交わした彼女も、初めてここでこの時間を過ごした彼女も。この制服を纏っていた。彼女の黒い髪は、あの頃よりまた少し伸びていた。 「さや果」 「うん?」  呼べば隣で、振り向く彼女。俺に向けてくれる笑顔は屈託なく、そのすべてが気持ちよく澄んでいた。それが、憚るものなどもう何も無いと教えてくれる。  どこにいても、誰がいても、俺が「さや果」と呼ぶたびに。 「エビフライ、ちょうだい」 「うん、どうぞ」 「違う、そっち」 「え?食べ掛けだよ」  こんなこと、前にもあった。初めてここに、彼が来たとき。 「いいから。ちょうだい」  憶えているのかいないのか、まったく同じ台詞、まったく一緒の体勢で、腕に隠れて目だけを覗かせる。こうしてねだられると、私は弱い。 「いいけど…」  本当に、犬みたい。いつかそう言ってみようと思いつつも、この仕草が見られなくなるのは嫌だから、口をつくことは無いかもしれない。 「じゃあ、いただきます」  箸で摘まんで差し出そうとしたエビフライは、 「え…」  そのままお弁当に落ちた。 「…!」  唇に濡れた感触。  見開いた目に、赤い髪。りんごソーダも香れない。だって、息はどうすればいいの。それ以上もう何も考えられなかった。  唇が触れる直前咄嗟に吸い込んだ酸素が、胸を押し上げたまま、さ迷う。  弾力のせいにして余韻を長引かせ、いやいや離れていく、睫毛をそっと起こす彼。瞬きもできない私を見つめて、この上なく満足そうな笑みはまるで七色、光そのもの。 「あれ、言わんかった?食べたほう、ちょうだいって」  私は震えながら、唇をなぞった。 「…聞いてない」  ――四月の、新学級。  ――五月の伸び伸びとした風。  ――六月の濡れた空気。  ――雲も厚みを増してきた、七月の午後。  ――八月の夜風。  そして九月は飛ぶように過ぎ。  十月の、高い高い空。 「俺、欲張りっちゃけん」 「…だから?」  この青は、春を抜き夏を駕し、 「…おかわり」 「…もう、…だめ」  ずっとずっと澄みきった。どこまでも光、伸びていくように。
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