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昌秀は一人だった。物心つく頃には両親はおらず、孤児院預かりになっていた。孤児院は小さな教会の傍らにいとまれていた。大人といえば神父と呼ばれる男が数人、他は女ばかりだった。シスターと呼ばれる女性たちは聖職者にもかかわらず、子供への虐待を常としていたし、神父は夜な夜な子供たちを自分の寝所へ連れ込んだ。
周囲の子供よりも大人しく無口な子供だった。不衛生な環境で育ったせいか、ひどく肌は荒れて、ぱさついた髪もまばらなに切りそろえられていた。
そんな子供だったからか、神父には見向きもされず、大体のシスターにも避けられていた。どこもかしこも痒く、遠慮なしに掻くので肌はいつだって赤らんでいた。
一日を生きるので精いっぱいだった。
両親は交通事故で亡くなったらしい。遺体の状態はひどかったらしい。そう、ベテランのシスターが何かの拍子に零した言葉に傷つくことはなかったが、自分の両親がいたことに驚いた。施設では友人もおらず、暇だったから、どんな人たちだったのか想像することが昌秀にとっての楽しみだった。
ある日、昌秀の遠縁だという老人が孤児院を訪れた。
そのとき、昌秀は外に遊びに出ていて、老人と会うことは叶わなかった。会わずに帰ってしまったと聞いた時、悲しかった。それでも、代わりに綺麗なメッセージカードを渡されたとき、とても嬉しかった。
そこには、遅くなって申し訳なかった。また迎えに来るから待っていなさいときれいな字で書かれていた。
きっと迎えに来てくれるであろうその人を待ちわびていた。その人は待てど暮らせど姿を見せなかった。
待ちきれなくて、シスターの机から老人の連絡先を抜き取って、全財産を叩いて老人のところへ向かった。
その日は夏日だった。
茹だるような暑さのなか、昌秀は歩き続け、たどり着いたのは大きなお屋敷だった。
老人は寝たきりの状態になって、1か月前に病院でなくなったとその家から出てきたおばさんに聞いた。その人は隣の家の人で身寄りのない老人を定期的に見に来ていたと聞いた。その日は遺品の整理のために来たらしい。その屋敷も時期に人の手に渡るのだという。
どばっと涙が出た。あったこともない老人を想って苦しくて泣いた。
数日して若いシスターに見つかって連れ戻されることになった。
自分の最後の血縁を失って、半狂乱になった昌秀はシスターに自分の境遇への鬱屈をぶつけた。
礼拝に訪れる家族を見つけるたび。自分にはなぜ誰もいないのだろうと思った。
なぜ、自分の両親はいないのか。なぜ、老人は消えてしまったのか。神様がいるなら、どうしてわざわざ自分の両親を、老人を選んだのだ。いくら考えてもわからなかった。
「あの人は肉体から解放され、眠りについたの」
神様から沢山の祝福を得て、きっと幸せにしていると言う。
「誰しも平等に訪れること……けれど、神様はあの人を少し早く連れて行ってしまったみたいね」
きっと神様に好かれてしまったのでしょうとシスターは昌秀を慰めた。
狡い。自分が得られたはずの温もりを奪った神様を許さない。誰かをこんなに強く憎いと思ったのは初めてだった。
そのシスターは昌秀が泣き止むまで一緒に居てくれて、顔の晴れが引いたころに一緒に孤児院に戻った。そのシスターは年若く、おどおどした人だったが、誰に対しても優しかった。子供が大好きだと言うその人は昌秀の目には他のシスターとは違うように見えた。
きっと、その人も優しかったから、彼女の口を借りると、そう、『好かれてしまった』のだろう。
一年も経たずに、その優しさに付け込んだ子供たちに性的暴行を受けて、次の日、シスターは建物から飛び降りた。物言わぬ死体になって見つかった。あとから聞いたことだ。
毎朝、毎晩と神様にシスターを返してほしいとお祈りをするようになった昌秀に神父様は彼女は窮屈なこの肉体から解放されて主のもとへと運ばれた。それは幸いなことであると諭した。
そのとき、昌秀は人の命が儚いことを知る。
昨日まで元気で騒がしくしていた子供が次の日冷たくなっていることもあった。命が散るのはあっというまだった。
数年し、六歳になった昌秀に引き取りたいという話が持ち上がった。
男は細身だったが、眼光は鋭く、見るからに想像していた良い人ではなかった。
「初めに言っておくが、俺は餓鬼が嫌いだ。めーめーと泣く餓鬼はもっとも嫌いだ。泣かされるくらいなら一発食らわせ。いいか、めそめそしやがったら迷わず叩きだすからな」
子供が嫌いな男がどうして自分を引き取る気になったのかはわからない。子供にここまでいうのだから、間違いなく善人ではないだろう。けれど、それでよかった。
「かまいません。優しい人はすぐいなくなる。あなたはいなくならなそうだ」
もう、人がいなくなるのは嫌だった。
殺しても死なないくらいの男のほうがいい。そういった子供に養父・古川悟は高笑いをした。
こうして、昌秀は古川家に養子として引き取られることになった。
一度に父親、母親と弟ができた。
知らない子供を養子にした父親に反発した妻は離婚したが、昌秀と弟は父のもとで育てられた。昌秀が古川家に来て、十年が経とうとしていた。
病室の名札が古川から自分の知らない名字に変わっていた。通りかかった看護師に尋ねると困ったように教えてくれた。また発作が出て、病室が変わったらしい。久々に訪ねようと思ったらこれだ。これなら弟と一緒に来れば良かった。
弟・愛は父が交通事故に遭ってから、度々来ているらしい。習い事をほっぽりだして見舞いに来ることを父はよく思っていないらしいが、邪険にされても気にもしないのだろう。小学生の弟・愛が父の容態をどこまで理解できているのかわからないが。
看護婦に父の新しい病室に案内され、扉を開けると、弟はまだ来ていないようだった。
ベッドの上でぼんやりとした目で窓の外を眺めている男がいた。
事故の後、父は憑き物が落ちたような穏やかな顔をするようになった。最初はどうしてこうなったのかまるでわからなかったが、いかにライオンといえど、獲物を狩らなくなれば、日和るのだろう。
「…父さん」
こちらへ視線が移る。
「具合はいかがですか?」
「昌秀か。久しぶりだな」
また髪が伸びたな、と口にする。
「ええ」
父は厳しかった。己にはもちろん他者にも平等に厳しかった。弱者をひどく嫌悪し、子供にも社会的強者となるように教育を施した。血の気の多い人であったから、折檻も日常茶飯事だった。男のくせに青白くなよなよするなと無残に髪を切られた記憶をまざまざと思い出す。
「前野には切ったほうが客受けがいいと言うのですが」
前野は父のお気に入りの部下だった。前日、父に代わって社長に就任した。父にもそうであったように息子である昌秀を慕っている。己が頂点にいるのだから、今更元社長の息子に頭を下げる義理はないだろうに。
「……前野だと?」
「ええ、もっと見苦しい傷がありますからいやだといったんですが、男にとって傷跡は勲章のようなものですと言ってくるんですよ。あの男は面白いですね、父さん」
父を恨んでいるわけではない。息子のこんな言葉にも黙り込むだけになった父が醜く哀れだった。
「あ、にいちゃん! 父さんと話してるー! 珍しー!?」
ねえねえ何を話してるのーと甲高い声が病室に響く。バダバタと慌ただしく飛び込んできた弟はまっさきに兄のもとへ走り寄った。そして、わざわざ人の膝の上に乗っかってくる。
「やめろ、愛」
その前に立ち上がり、膝を払う。
「少し外に出てきます」
弟の無邪気さはこの場において、病院内の暗い淀みを消し去る様な明るいものだが、屈託のなさが鬱陶しく思えることがある。
それにしても父の弱りようには驚いた。あの人も人だったのだろう。人はなんて脆いんだろう。あの人と初めて会った時は、こんな鮮烈な人がいるのかと思った。
昌秀は孤児院育ちだ。肉親の記憶はなく、実の両親へ向ける感情をもう思い出せないが、父のことは尊敬していた。
「あれ? 二人ともいないのか?」
病室に戻ると空だった。いつのまにか車椅子もなくなっている。
仕方ないので、しばらく病室で待つ。けれど、十分、二十分、と時は過ぎていく。耐え切れず、通りかかった看護婦に二人を見かけていないか尋ねる。
数人の看護婦をあたってようやく二人が上の階層で見たという話を聞く。なぜそんなところにと思いながら、そのフロアに向かう。
看護婦から話を聞き、ついには屋上へ向かうことになった。
屋上への階段の傍で蹲った愛を見つける。父親の姿はなく、屋上への扉は締まっている。
「愛」
「あ、にいちゃん」
「…何をしている?」
「父さんとかくれんぼ。おれが鬼だから待ってるの」
「かくれんぼなんて父さんができるわけないだろう。何を……」
扉に手を掛けようとすると、弟が手を掴んでくる。
「ダメだよ、にいちゃん! 父さんが絶対時間になるまでは入ってくるなって…ッ!」
「バカバカしい」
弟の制止を振り切り、屋上の扉を開く。びゅうと強い風が吹き込んできて、髪が乱れてたまらず髪を抑える。乱れる髪を隙間から見えたのは父さんが景色を眺めているところだった。
父さんがこうなる前、父さんと呼ぶときはいつも少しだけ緊張したのを思い出した。
「父さん」
そんなに端で何をするつもりですか。
父はこちらへ振り返り、くっと笑った。それは少しだけ事故前の父さんの笑みに似ている。
「来たか。昌秀」
「父さん、そこから動かないでください」
父は聞こえていないようだ。
「昔から俺は決めていたことがある。生まれは選べなかったが、死ぬ時くらいは自分で決めてやろうとな。予定よりも早かったが、俺はここまでだ」
じわじわと近づきながら、目の前の父親が今にも飛び降りそうで恐ろしかった。
「父さん、何を言ってるんですか」
心配するな。悲観することはない。元から決めていたことだ。とはいえいざとなると揺らいだがな。
「俺が持っているものはすべてお前にくれてやろう」
「うまく使え」
父さん?と後ろから幼い声がする。
「さらばだ」
父は車椅子ごと建物の下へ落ちていった。
「父さん!」
生まれ育ったところには醜いものしかいなかった。優しいものは綺麗なものは誰かに奪われていく。強くなければ全ては無意味だと教えてくれたのは父だった。
ようやく目指すべき人が出来たと思った。ようやく家族と呼べる人ができたと思った。人のもろさを知っていたのに、ずっとこのまま続くのだと思っていた。
駆け寄って、眼下を見下ろし目を伏せた。車椅子の下で真っ赤な血液が広がっていた。一目でもうダメだと思った。絶対に助からないと確信する。
「父さん? 父さん、落ちちゃったのか?」
無邪気な声がすぐそばで聞こえた。はっとして、とっさに傍に来ていた弟を引き寄せ、目を抑える。
「兄ちゃん?」
「愛、お前は見てはダメだ…ッ」
「兄ちゃん、父さん、落ちちゃった。ねえ、落ちちゃったんだよ! 助けないと! ねえ、兄ちゃん」
「父さんはもうだめだ」
「なんで!? だめじゃないよ! まだわからないよ! にいちゃん、離して!」
弟の声は呆然としたものから涙声に変わっていた。
お母さんとお父さんは天使になって神様のところへ行ってしまったの。神様に気に入られてしまったのね。シスターの言ったそんな子供じみた慰めを信じていたわけではないのにどうしてか思い出した。
「父さん、父さん、…父さんッ!」
腕の中から手を伸ばして、父親を追いかけてさ迷わせる。
今にも父を追いかけていきそうな弟を必死に抱きとめる腕はがたがたと無様に震えていた。
◆
父はいつだって弱者に冷たく、強者であろうとしていた。そんな父が交通事故にあってから他人の手がなければ、用をたすこともできなくなってしまった。働かざるものは食うべからず。父は何も出来なくなったと悟ったとき、蹴りつけることを決めたのだろう。
父らしいと思った。あのまま日和って生き続けることを選択することもできたのにそれを選ばなかった父にありし父を垣間見る。
父の葬儀を終えると、見覚えのある人が祖父母と話していた。父さんの元妻だった。
聞き耳をたてずとも自分たちの話だとわかった。元妻はまだ小学生である弟を引き取るという話をしていた。祖父母が昌秀を引き取るという話になりそうだった。昌秀は元妻とは折り合いが悪い。特に異存はなかった。
「いやだ! おれはにいちゃんといるっ! にいちゃんから離れないから!」
弟は大人たちの中に飛び出していった。
葬儀中にも泣かなかった弟がぼたぼたと涙をこぼす。きっと我慢していたのだろう。自分の感情に素直な弟は父親が泣く子供が嫌いだから。その気持ちが痛いほどわかってしまって、こらえきれずに溢れていくものに胸を突かれた。
弟の頭をぽんと撫でる。
「わがままをいうんじゃない」
「にいちゃん…」
「母さん一人で俺たち二人は可愛そうだろう。絶対に会えないわけじゃないんだ」
「…っ」
「いやだっ、俺はいやだからな!」
弟は会場から飛び出してしまった。
あとは大人に任せて、弟を追いかける。
愚かしくも弟はあの病院の屋上に忍び込んでいた。昨日の今日で屋上はテープが張られ、侵入者を拒むようだった。
「愛、危ないからこっちにこい」
「いやだ」
「じゃあオレがそちらに行こう」
座り込んでいる愛の隣に座る。まだぐずっている。
「」
「ああ」
父は全てをくれると言ったが、昌秀は何も欲しくはなかった。
「」
弟を泣き止ますこともできない。無力な自分はここにいていいのだろうか。モラトリアムなんていいわけじゃないか。それなら、自分はここから飛び降りるべきじゃないのか。
考えなかったわけではない。けれど、そこまで愚かにはなれなかった。今の自分では犬死だ。
弟は愚かにも本気だった。
その瞬間に弟が消えてしまいそうに思えた。また、神様に攫われてしまうんじゃないかと思った。
抱きとめる。
「行ってはダメだ」
昌秀は顔を左右にふる。連れて行かないでくれと強く願う。
「俺を一人にするのか」
家族は一緒にいるものなんだろう。そうだ、家族だ。もうたったひとりの家族だ。
「いやだ、いっしょにいる」
背中に腕が回ってきた。恐る恐る抱きしめ返してくる弟をきつく抱きしめる。
涙に濡れた声が胸を打つ。
「いっしょにいさせて、にいちゃん。俺はにいちゃんといっしょに、いたいんだ」
一緒にいるではなくいたいと口にした愛は叶わないと知っているんだろう。それがたまらなくいじらしかった。
幼いころから一人だった。優しい人はいなくなる。そうでもない人でもあっけなく命は散る。失うのが怖くて諦めたふりをしていたけれど、ずっと決していなくならない人が欲しかった。ずっとそばにいてくれる人を探していた。
この無垢な命を奪われないために自分はもっと強くならねばならない。
「半年だけ我慢しろ。俺が高校入学したら、母さんに二人暮らしさせてもらえるように頼んでみる」
義務教育を終えたら、前野でもなんでもひっぱりだして母親を説得する。
愛は本当にと不安げに問うてくる。安心するように告げる。
「ああ、一緒に暮らそう」
神様には渡さない。
愛がずっと一緒にいてくれるならなんでもできると思った。
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