おてんば娘の小さな冒険

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 春香は大学の研究室で実験をしているところだった。  カタカタと棚の扉が音を立てたかと思った次の瞬間、猛烈な揺れが襲いかかる。  春香は実験台に手をついて体を支えながら、試薬の並ぶ棚の引き戸をとっさに閉めた。試薬瓶が落ちて割れると危険だ。そして自分のデスクの下に飛び込む。  デスクに積んでいた実験ノートや資料の山が、雪崩を起こして床へと崩れた。  経験したことのない強くて長い揺れがようやく収まったころには、散乱した書類やノートで床面が見えなくなっていた。冷蔵庫も横倒しになっている。エチジウムブロマイド入りのタッパーがひっくり返っていたが、ふたは閉まっていたので大事はなかった。  すぐに外へ出ろ! どこかで誰かが叫ぶ。上着を引っ掴み……携帯がない。仕方がない。そのまま飛び出す。博士課程の先輩はノートパソコンも抱えている。大事な実験データが入っているからだろうが、春香は内心バカじゃないかと思った。  携帯を失い落胆していた春香だったが、周囲の状況を見るに圏外で使い物にならないようだった。  規模は。範囲は。家族は無事か。何も分からない。  私は無事です。それも伝えられない。  公衆電話に行列ができているのが見えた。公衆電話は電話線から電力供給を受けているので非常時でも通話が可能だ。春香は三十分ほど並んで公衆電話のプッシュボタンを……両親の携帯番号を覚えていない。  歯ぎしりしながら、実家の固定電話の番号を押した。仕事で留守なのは分かっていたが、せめて自分の無事を留守電に残そう。  しかし、実家にも繋がることはなかった。これが意味するところは、実家のある地域も被害を受けたということだ――。  私物を取りに一時的に校舎内に入ることが許された。デスクに置いていた春香の携帯は、地震の拍子に床に落ち、避難の際にめちゃくちゃに踏まれたらしく、蝶番が割れて真っ二つになっていた。  自宅は思ったほどの被害はなかった。テレビが落ちて画面がバキバキになっている光景を覚悟していたが、本が数冊落ちていただけだった。  昔の携帯にSIMカードを入れ替えたが、長期間放置していたためバッテリーが切れている。電気が止まっているので充電もできない。  街に明かりが戻ったのは三日後のことだった。電気さえ戻れば、例え水道が復旧せずともマンションの受水槽の中身が残っている間は水も出る。しかも春香のマンションは都市ガスではなくプロパン。ガスも使えるようになったため、三日ぶりにシャワーを浴びた。べたべたの髪は三回シャンプーしてようやく泡立った。浴槽にも水を貯めておく。さらに、ありったけの米を炊いた。この三日間、スーパーやコンビニが投げ売りで放出してくれたお菓子で食いつないできたが、米さえ炊いておけば随分マシになるはずだ。  携帯を充電し、両親の携帯や実家の固定電話にかけてみた。未だ繋がらない。  そして、津波が地元を飲み込んでいく様子を、春香は震災三日後にして初めてテレビで目の当たりにした。甚大な被害をもたらしたあの津波を、渦中の被災者はテレビが復旧するまで知らなかったのである。  両親の職場が海沿いだということは、全身全霊で頭の中から追い出した。  さらに二日後、春香の携帯が鳴った。 「春香! 無事か、怪我はないか!」  ようやく聞くことのできた父の声。ぐっとこみ上げてくる。 「大丈夫!」  心配をかけまいと、努めて元気良く答えた。 「そっちは大丈夫? お母さんも無事?」 「こっちは全員無事だ。電気も復帰した」  実家の近くには病院があるため、優先的に復旧作業が進んだらしい。携帯も中継車のおかげで通じるようになった。水道はまだだが、給水車が病院までやってくるので何とかなっているとのことだった。 「食べ物はどうだ」 「水が通るようになった時にご飯炊いといたから」  貯水槽が枯れて、その日の内に水が出なくなってしまったので、まとめ炊きしておいて本当に良かった。トマトジュースでトマトリゾットを作るなど、案外しゃれた食事を楽しんでいる。 「そっちは?」 「菓子パンが山ほど」  食いきれずに消費期限が危ないくらいだ、とお父さんは苦笑した。  お父さんは震災当日は職場の屋上で一夜を明かし、車が流されたので歩ける道を探しながら半日がかりで帰宅したらしい。実家は内陸部にあるので津波が届かなかったのだ。お母さんはたまたま仕事が休みで家におり難を逃れた。  良かった……。安心すると、せき止めていたものが一気に溢れて止まらなくなった。すごくみっともないことになっている気もしたが、相手がお父さんだったのでどうでもよかった。 *  結婚披露宴用の動画を作るから小さい頃の写真を何枚か送って欲しい、というのが娘の要望だったがアルバムをめくっているとあれもこれもとなってしまい、豊久は結局百枚の写真を送りつけた。これでも選別した方だったがもう無理だった。どれも大切な思い出だ。あとは春香が好きに選べば良い。  と思っていたのに、披露宴で上映されたプロフィール動画では百枚の写真が右から左へとひっきりなしに流れていった。まさか全部使うという荒技に出るとは思わなかった。寿子は最初こそ写真の奔流に合わせて首を左右に振っていたが、じきに諦めたのかフリーズしていた。  披露宴の終盤。新婦の手紙。寿子はきっとぐしょぐしょになってしまうだろう。豊久は、せめて自分はしゃんとしていようと心に決めていた。しかし、読み始める前から早くもぐしょぐしょになっている母娘を見ると、その自信もしぼんでくる。  本日は、お忙しいところ私たちの結婚にご列席いただきありがとうございました。たくさんの方に祝福いただけたこと、感謝申し上げます。ここで私から両親へ、感謝の手紙を読ませていただきますことをお許しください。 と、娘はこんな感じらしきことを冒頭に述べた。涙声と嗚咽混じりなので、半分くらいは想像で補って聞いている。  お父さん、お母さん、今日までの二十七年間、本当にお世話になりました。  小さい頃からおてんばだった私は手のかかる子だったと思います。  毎晩夜泣きをする私を夜な夜なドライブに連れて行ったと、お母さんは懐かしそうに話してくれたことがありました。ザリガリを山ほど釣ってきたり、服を泥だらけにしたり、ドングリを袋一杯に拾ってきたり、こっそりバイトをして呼び出されたりと、おてんばどころか山猿みたいな娘だったと思います。お母さんは私を叱ってくれて、私は「えー」とブーたれていたのを今でも覚えています。全然言うことを聞かなくて物置に閉じ込められたのも今では笑える思い出です。厳しくしつけてくれてありがとう。  春香もきっと手紙を書きながら思い返していたのだろう。豊久がアルバムをめくりながら愛する娘との思い出を振り返っていたように。  しかし披露宴で話すことかね。豊久は俯き加減に苦笑した。  震災で街は変わりました。今、街は復興を遂げていて、真新しい家が次々と建ち、大きなショッピングモールもできています。でも、だからこそ、震災の爪痕を実感しています。私が小さかったころには何もなかった海から離れたところに、整然と並ぶ綺麗な家々。ショッピングモールがあるところも元は田んぼでした。新品とそっくり入れ替わったような街を見ると、かえってこの街を津波が襲ったのだということが身に染みるのです。  そんな大災害の中、両親とも無事だったことは幸いでした。そしてこうして二人揃って私の結婚を祝福してくれています。迷惑ばかりかけてきた私だけど、どうかこれからは親孝行させてください。友人の中には親孝行をしたくてもできなくなってしまった子もいます。私に親孝行できる時間をくれてありがとう。  確かに手のかかる娘ではあったが、自分の子を迷惑だと思う親がいるものか。親孝行などという単語を春香が口にするとは。豊久は体がむず痒くなるような気がした。  親に恩は返さなくていい。その分を次の世代へ。いつかできるお前の子へと注いでくれたら十分だ。  お父さん。  お父さんに披露宴で使う写真を見繕ってと頼んだら、百枚も送ってくれましたね。きっと選べなかったんだろうなぁと微笑ましかったのですが、私も選べなくて、結局全部使いました。  笑顔の私。はしゃいでいる私。泣いている私。不機嫌そうな私。お母さんと手を繋いでいる私。お母さんに怒られている私。  でもその中に、お父さんが全然いませんでした。お父さんがシャッターを切っていたからです。  私が当たり前のように大きくなって、それが誰のおかげかなんて顧みることもなくいられたこと自体が、お父さんの温かさであり優しさだったのだと思います。  次の一枚は、全員で写真を撮りましょう。  最後に、と春香は言葉を切った。  そして涙をぬぐって上げた顔は、親の贔屓目なしに本当に美しかった。  今、私のお腹には新しい命が宿っています。  お父さんとお母さんのように我が子に愛情を注ぎ、そしていつまでも笑顔で温かい家庭を作っていきます。  今まで本当にありがとうございました。  !? 聞いてないぞ! 子どもだって!!? 寿子も隣で唖然としている。  ちょっとは落ち着いたと思ったら! おてんばの名残がうかがえる唐突な報告であった。 *  出来上がった写真を見ると、我ながら笑顔が下手くそだった。ずっと撮る側だったからだろうか。  春香は眩しいほどの満開の笑顔だった。  ありがとう。幸せに。  豊久は新しい家族写真をアルバムに綴じた。 Fin.
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