悩み多きブッダたち

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「悩み多きブッダたち」 僕は、夜中の本町を歩くのが好きだった。 本町というのは、東京で言うとどのあたりに似ているのかは知らないけれど、大阪の古くからのビジネス街である。 日曜日の夜ともなると、1人で歩くのは怖いぐらいひっそりとしている。 そんな夜中の本町を歩くのは、そのひっそりとした街の中をただ1人歩いていると、何故か落ち着いた気分になることができたからだ。 夕方からの霧のような雨で湿り気を帯びたアスファルトが、街灯の明かりを受けてホタルのように光っていた。 その日は、土曜日の早い時間だった。 夜の9時ぐらいだろうか。 中央通りを横切って淀屋橋に向かって歩いていると、突然女の子にチラシを渡された。 ハガキぐらいの大きさの手作りのチラシには、「幸せ探しのお手伝い」と書かれている。 幸せの文字の後ろに赤いマーカーでハートマークを書いているところが女の子らしい。 そして言うのである。 「今、幸せですか。」 白いスエットが初々しい、ロングヘアーを頭の上でお団子にした女子大生ぐらいだろうか、僕の戸惑う表情を見て、甘えたように笑った。 「いや、幸せって言われてもなあ。」 「あ、幸せじゃないんや。」 「いや、幸せじゃないっていう訳でもないし。」 「じゃ、100パー幸せやの。」 「そら、100パー幸せって訳じゃないよ。」 「やっぱり。じゃ、幸せ探しのお手伝いをしますよ。」 どうも、幸せ探しって言う言葉が胡散臭い。 それに、こんな誰もいないビジネス街で、若い女の子がチラシを配っているというのも妙である。 何かを勧誘するなら、他に場所も時間もあるだろう。 「それにしても、こんな夜中に、それに本町やで。こんなチラシを配っても誰も通らへんやろ。それに幸せ探しって怪しすぎるやん。」 「うちもそう思うねんけどな。お寺、この近くやし。」 「え、お寺。」 「そうやねん。チラシにも書いてるけど、お寺の案内やねん。」 「、、、、ほんまや。そやけど、この『オケケ寺』って変わった名前やね。」 「その名前ちょっと恥ずかしいねんけど。管長さんが付けたから仕方ないねん。嫌やんなあ。そんなお寺の名前。」 「うん。変な名前やけど、、、どういう意味?」 「それ恥ずかしいから言われへんわ。興味あったら管長さんに直接聞いたら。」 「いや、今初めてチラシ貰っただけやし。」 「すごい家族的なお寺から来てみいひん。」 「そやけど、この辺にお寺なんてあるんや。」 「お寺って言っても、ビルの2階やけどね。それに歴史あるお寺ちゃうよ。お父さんとお母さんとでやってるお寺やから。」 「ひょっとして管長さんってお父さん?」 「嫌やろ、そんなお寺。」 と言って、屈託なく笑った。 次の日が休みということもあったのか、いつもの散歩で気持ちが軽くなっていたせいか、彼女について行くことにしたのは、後から思えば、今ある日々を何とか変えようと思うのだけれど、その1歩が前に踏み出せずにいた僕の小さな挑戦であったのかもしれない。 ただ、その挑戦が前方に1歩の前進ではなく、やや寄り道のように、90度左に曲がってしまったのでは、出口が解らなくなってしまっても仕方がないことなのである。 その時はそんな事も考えずに、彼女の何の力も入っていない勧誘なのか、ただのお喋りなのか、それが心地よくて、そんな状況を気に入ってしまったようなのであります。 それにルックスも可愛い。 そこが興味をもったポイントかもね。 いつもの僕なら初めての女の子の誘いについて行くなんて考えられないけれど、その彼女と話している瞬間、そこだけ空気が澄んでいるような非日常な感覚が、僕のこころの底にある何かを変えたいというヘドロのようなぬかるみを、小川のチョロチョロと流れる水で流し始めたのだろうか、少しだけならという気持ちになっていたのである。 死ぬまでこのままサラリーマンを続けていかなきゃいけないという、当然に想像できる漠然とした未来に、もがきながらも、もがき続けながらも、もう我慢する必要はないんだよという何か大きな存在からの命令を、他力的に求めていたせいかもしれない。 ただ、お寺に向かう途中にそんなことを考えていると、自分を俯瞰的に見ている自分がいて、僕自身を僕自身が可笑しくて笑ってしまった。 彼女について3分ほど歩くと、オケケ寺に着いた。 4階建てのビルには2階だけに明かりがついている。 ドアを開けると道場と呼んでいる30畳ぐらいの部屋があって、15人ぐらいだろうか信者と思われる人たちが正面を見つめてお経を唱えている。 50歳ぐらいの人が多いだろうか、そのほとんどが女性である。 「ナームー、オーケーケー、ブーツ。」 「ナームー、オーケーケー、ブーツ。」 前に座った管長さんと呼ばれるお父さんが、「ナームー、オーケーケー、ブーツ。」というと道場の全員が「ナームー、オーケーケー、ブーツ。」と続いて唱えている。 南無阿弥陀仏というのはよく聞く。 僕の実家の宗派も浄土真宗だ。 でも、ナームー、オーケーケー、ブーツというのは、初めて聞いた。 想像するに、ナームーは、南無ということで、最後のブーツは仏のことだろう。 そこは同じだ。 でも、間に挟まった「オーケーケー」が解らない。 オーケーケー、オケケ、オケケ牧場? そんなことは、ないわな。 オーケーケーを考えていると、どうもお勤めが終わったようである。 「はい、お疲れ様です。どうぞお時間がある人は、お茶とお菓子でも召し上がって帰ってね。」と上品な女性がドアから入ってきた。 「お母ちゃんやねん。」 女の子が言った。 想像していたよりも若いお母さんで、でも、その若さには似合わない落ち着きと優しい表情が感じられる。 すると、集まった人の中から酒やけをしたような声が聞えた。 「あ、新しい信者さん?怜ちゃんのお色気作戦に引っ掛かったね。」 シマウマ柄の60歳ぐらいのおばちゃんが僕に話しかける。 ヒョウ柄は大阪ではよく見かける。 でもシマウマ柄とは、派手な人である。 それに柄が横に伸びきっているよ。 「信者じゃないんです。でもまあ、お色気作戦は、そんなところです。」 女の子に惹かれて、やってきたことは間違いがない。 「うち、怜子です。」 女の子が言う。 ニコリと笑ったらエクボが可愛いじゃない。 「あ、管長。新しい人連れて来たよ。」 お父さんに声を掛けた。 「道場では、お父ちゃんの事、管長って呼ばなあかんねん。お母ちゃんは副館長やで。やりにくいやろ。」 と小声で僕に耳打ちをする。 「入信希望かな。」 管長と呼ばれる人が僕に近寄りながら聞いた。 白いカッターシャツにGパンという姿は、宗教団体のいわゆる管長さんには見えない。 50歳ぐらいだろうか、やや色白なサラリーマンと言った雰囲気だ。 「いや、まだそんな気はないんです。ただ何となく付いてきただけです。」 「あ、そしたら娘のお色気作戦か。」 「まあ、そうです。」 否定するのも面倒くさいので、そう答えた。 娘は、お色気作戦をするほどセクシーでもない。 むしろスポーツでもやっていそうな、明るい女の子だ。 とはいうものの、そんな女の子が好みではあるのだけれど。 「そうか。それは中々に、ちゃんとした理由だな。安心したよ。たまに宗教かぶれした人が来るけど、あれは厄介だからね。」 「そうなんですか。」 「やたらと議論したがるんだよ。困るよね。うちの教団は理屈じゃないからね。ただ信じるだけなんだからね。」 ただ信じるだけって、どういうことなんだ。 「ほな、管長さん。これで失礼しますわ。新しい信者さん出来て良かったね。」 シマウマ柄のおばちゃんが帰って行った。 「お疲れさん。ありがとうな。信者ゲット!」 管長が握り拳を振り上げた。 「会費ゲットー!」 娘が続けて握り拳を振り上げる。 無防備な笑顔が、そんな会話も笑えはするけれどね。 「いやいや。信者じゃないし。ちょっと来てみただけやし。どんなとこなんかなって。」 これは困った。 それにこれからどうしたらいいものか。 帰るに帰りづらいし、とはいうものの、このままじゃ信者にされてしまう。 「信者にならへん。諦めて。」 娘が言った。 「いやいや。それは、ないない。それにまだ、ここが何なんか知らないし。」 「じゃ、入会してから知ればいいやん。入会金タダやし。月の会費も怜ちゃん特典で2000円にしとくわ。」 「怜ちゃん、大サービスやな。お父さん悔しい。」 管長は、ハンカチを口にくわえて悔しそうに顔をゆがめた。 あんた、漫才師か。 それに、いつハンカチ出したんや。 マジシャンか。 「いや、入会は、まあ置いといて。さっき言ってたオケケって、どういう意味なんですか。」 「そうなんや。まだうちの事知らんかったんやね。まず、オケケというのは、うちの御本尊様のことなんだ。実は、これが大変なお宝でね。これを聞いたら絶対に信者になりたくなるよ。怜ちゃん、お願い信者にしてーなんて言うよ。」 「いや、怜ちゃんは置いといて。そのオケケなんです。」 「オケケね。いやこれは本当に歴史的にみても国宝クラスのものなんだけれどね、一応、秘仏としてるから、世間で騒がれてないけれどさ、何だと思う。」 それが解らないから尋ねてるのである。 「日本の神様とか仏様じゃないですよね。でも、インドの仏様なんですか。」 「仏といえば仏だな。死んでしまった人だからね。でもいわゆる仏様じゃない。実はね、これは毛なんだ。それも下の毛。びっくりするよ。これはブッダの下の毛なんだ。」 「えーっ。ブッダの下の毛って、そんなものが存在するんですか。聞いたことがないよ。」 「だから、秘仏で、国宝クラスなんだ。ブッダも人間だから下の毛も存在するだろう。」 それはそうである。 ブッダにも下の毛はあるだろう。 「ブッダの下の毛って、何でここにある訳なんですか。それにそんなもの怪しすぎるやないですか。それをまた拝んでどうするの。」 管長は自慢げに顔をほころばせる。 「そう思うわな。普通はな。」 「吃驚した?そやから恥ずかしいて言われへんゆうたやろ。」 娘は悪戯っぽい目で僕を観察するように笑った。 「お父さん、折角の信者さんやし、ビールでも持ってこようか。」 お母さんが管長に言う。 それにしても、どうしてこんな上品で落ち着いた奥さんが、この管長の旦那であって、この娘の母親なのだろうか。 「そうやな。信者ゲット祝いといこか。」 「あ、怜子も飲みたい。」 「じゃ、3人で乾杯しよう。」 どうして、初対面の僕に対して、こんなに開けっぴろげに接することができるのだろうか。 「いや、だからまだ信者やないちゅーてるし。それにビールなんて飲んでも構わないのですか。」 「え、何で。」 「何でて、見たところ仏教系の宗教団体みたいやし。戒律とかないんですか。」 「戒律なんて必要はない。ビールは飲みたい時に飲むように存在しとるんや。即ち、今は飲みたい時なんや。」 「ねえ、そんな難しいこと考えんと、ビール飲もうよ。」 怜ちゃんが言う。 いや、怜ちゃんなんて言ってしまったけれど、娘を怜ちゃんなんてさ、僕もこの場の雰囲気になれてきてしまっている。 「はい、どうぞ。今日は特別にサントリーのプレミアムモルツよ。ゲット祝いやからね。」 母親も自分で言ったことが可笑しかったのか、笑いをこらえながら帰っていった。 「それじゃ、乾杯。」 どうも、今夜は諦めるほかないようである。 「それにしても、今日は良い夜だなあ。ビールがうまい。」 「本物なんですか。そのブッダの下の毛ちゅーものは。」 「ああ、本物や。」 「これはブッダが死んだ直後に、ブッダの愛人が、自分がブッダに寵愛された証として抜いたものだ。」 「またや、また変な話が出てきましたね。愛人って、ブッダに愛人がおったなんて聞いたことがないです。それにブッダって結構な歳まで生きたんちゃうかったかな。そんな年寄りに愛人ってできるんやろか。年寄りのおじいちゃんに年寄りの愛人なんて、考えただけで気持ち悪いな。」 突然怜ちゃんが大声で笑い出した。 「あのさ。愛人てゆうたら普通は若い綺麗な女の人って決まってるわ。誰が、何が悲しくておばあちゃんの愛人作らなあかんの。なあ、お父ちゃん、愛人は若い女の人やんなあ。」 「そうや、たぶん20歳ぐらいの女の子やったやろう。目はパッチリしたエクボの可愛い子やで、きっと、そんな子がブッダさんは好きやったとお父ちゃんは思うで。10人ぐらいは、いたんちゃうかな。怜ちゃん言うとおりや。男は若い女が好きに決まってるやろ。」 「いやん。男ってイヤラシイ。」 「そうやで、男はイヤラシイから怜ちゃん気いつけなあかんで。」 「うち、怖い。」 「お父ちゃん、心配。」 だから、あんたら漫才師ですか。 それにしても、脳天気な親子であるが、何故か嫌いにはなれないのが不思議だ。 「でも、おじいちゃんにそんな元気あるんやろか。」 それはそうだよね、誰でもそう思うよね。 いくら愛人と呼ばれる女性がいたとしても、何もなければ、それは愛人と呼べるものかどうか。 「君、チャクラという言葉を聞いたことがあるか。」管長が言う。 そういえばインドのヨガで、人間の肉体的な身体と霊的な身体のエネルギーのセンターのようなものらしいということは知っている。 管長が続けて言う。 「ブッダは、ヨガの修行も完成していて、すべてのチャクラが開いているんだ。だから1番下にあるムラダーラチャクラと2番目のスバディスターナチャクラが開いている。この2つのチャクラが開いちゃったら大変だよ。 つまりは、精力絶倫になっちゃう訳だ。 ということは80歳になっても、20歳の愛人を持つこともできるという理屈だ。 それに、ブッダだよ、ブッダ。 普通より開いちゃってる訳、パアーッとね、開いちゃった。 だから10人愛人がいてもね、毎夜、愛人をとっかえひっかえできちゃう訳。」 「きゃー。ブッダさんのエッチ。」怜ちゃん言う。 少し酔っ払った頬にえくぼが可愛い。 「でも、毎夜とっかえひっかえって言ってもさ。お弟子さんとかいるじゃないですか。」 「見られるのが好きだったのかもしれないな。」 「きゃー。ブッダさんヘンターイ。」 どうしてこうも明るいのか。 「でも、ブッダは欲とかを超越しているんじゃないですか。だから悟りを開いた。それなのに愛人って、性欲丸出しじゃないですか。」 「君は精力絶倫とか性欲丸出しに興味があるようだね。」 「いやいや、そんなことはないです。」 「お兄さん、大丈夫やって。男の人は大体エッチな生き物やもん。」 怜ちゃんが僕の肩をたたいた。 それにしても、年上の僕をどう思っているのだろうか。 同級生か年下に話すような感じだ。 感じではあるが、気分の悪いものじゃない。 根っからの大阪の下町のおばちゃんの会話を、子供のころから聞きすぎて、体中が大阪の下町の娘に育ったようである。 「君は、そう言うなら性欲もないのか。」 「いや、性欲は誰でもあるでしょう。」 「やっぱり、あるんや。」 どうしても怜ちゃんは僕の性欲の有無を確認したいようである。 「そんでもって、その性欲はなくすことができるものなのか。一体、性欲はあることが人間として悪なのか。」 僕を試しているのか管長は質問をした。 「いや、善とか悪とかいうものじゃないと思う。それに性欲をなくすなんて無理ですよね。」 「そうだろう。でも、いつも精力をもてあましてモヤモヤして、それでも修行のように禁欲を試みて失敗する。それが生半可に悟りを開こうとか、修行をしようとする人たちに共通する考え違いだ。そもそも性欲を否定するなんて人間を否定しているのと同じことだとは思わないか。性欲だけじゃない食欲も、その他の欲もみな同じだ。」 「でも、欲丸出しっていうのはなあ。それでいいんですか。」 「それでいいんだ。」 「はい。ゆで玉子よ。ごめんね。もっと上等なおかず用意で来たらいいねんけど。」 お母さんが更にビールとゆで玉子を持ってきてくれた。 「ありがとうございます。」 「いえ、こちらこそ、ありがとう。うちのお父さんと娘をよろしくね。」 優しい心配りのお母さんがいるからこそ、この2人がこれほど自由に振る舞えるのだろうね。 管長は、ゆで玉子を1つ持ち上げて、両目を寄り目にして見つめている。 そして首を傾げて、更に見つめる。 そして言った「不条理や。」 「また始まった。お父ちゃんは、ゆで玉子食べる時は、いっつもこうやねん。」 「君は玉子焼きを作る時に、どうやって作る?」 急に真面目な表情になって僕に問う。 「玉子焼きって、玉子を溶いてフライパンで焼きますけど。」 「もっと詳しくや。玉子を割ったら、どうする君は。」 「どうするって、、、。そう言えば僕の母親は、砂糖と水を少し混ぜてたなあ。僕はね、どっちかというと甘い味付けは嫌いだったんですよね。でも、今思うとそれが母親の味っていうやつなんだよね。」 「いや、そんな話じゃない。玉子を割って、、、。どうする。」 「うーん。どうするって言われてもなあ。玉子を割って、、、へそを取って、、、、。」 「今、何て言った?へそを取ってって言ったな。へそって何や。」 「へそって、黄身の横に付いてる白い気持ち悪いやつあるじゃないですか。あれをへそって言ったんですけど、まあ世間ではカラザっていうやつです。」 管長は娘の顔を誇らしげに見て嬉しそうに言った。 「君は偉い。そしてまっとうな神経の持ち主だ。どうだ、私の後継者になるか。信者を飛び越してさ。私が死んだらこの寺のようなものを譲るよ。」 「いや、信者も後継者も結構です。でも、へそがどうかしましたか。」 「気持ち悪いだろう。へそが。」 「はい、あれはどうも好きになれませんね。」 「うん。そうだ。あれは玉子料理にはあってはならないものだ。先日もね、テレビを見ていると、有名な料理屋のレシピ紹介のような番組でさ、出汁巻を作るのに、カラザをとってたんだよね。やっぱり高級店ではカラザを取るんだって納得したね。やっぱり解る人は解る。どんなに高級なお店でもカラザを取らない店は最低だ。」 「2人とも神経病みやなあ。そんなんじゃ早死にするで。カラザなんて箸でグルグルってかき回したら分らんようになるやん。あ、ちょうどええぐらいの半熟や。」 怜ちゃんは、ゆで玉子を綺麗に剥いて塩を振りかけてかぶりついた。 「それじゃ、ゆで玉子は、どうする。」 「玉子を、ゆでます。」 「そうだよね。そうするしか方法はないよね。ゆで玉子作るのに。」 「それが、どうしたんですか。」 「君は、それで大丈夫なのか。」 「大丈夫かと言われても。それしか、ゆで玉子を作る方法しらないし。」 「不条理だとは思わないのか。」 「不条理。」 「へそだよ。へそというものはだね、どんな玉子料理にもあってはならないものだとは思わないのか。それなのに、ゆで玉子という料理は、へそを付けたまま料理して、へそを付けたまま、食べなきゃいけないんだぞ。しかし、これが美味い。塩もいいし、マヨネーズもいい。君はどっち派だ。いやそれはいい。その上手い食べ物をさ、最も忌み嫌うべきへそを意識しながら食べなきゃいけない。これが不条理じゃなくてさ、何といえばいい。」 「それは、普通という。」怜ちゃんがゆで玉子から視線もそらさずに合いの手をいれた。 怜ちゃんは、こんな会話にも付き合ってくれる優しさがある。 とはいうものの、そう言われればそうである。 不条理ではある。 「管長さんのいう事も一理ありますね。じゃ、ゆで玉子を食べないんですか。」 「いや、それは食べる。食べるけれども、ただ食べない。不条理を感じながら食べるんだ。ゆで玉子と言う不条理を受け入れながらね。」 「お父ちゃん、そんなこと言うても王将の天津飯、いっつも美味い美味いって食べてるやん。王将の人は絶対にヘソ取ってないと思う。」 「、、、、王将の天津飯は仕方がないんや。それは諦めやなあかん。安いんやし。」 こんどは可笑しくて僕が笑ってしまった。 始めはお色気作戦、そしてお母さんのビール作戦、そしてとぼけた父親と娘の会話。 何故か楽しくて、居心地がいい。 「あ、そうだ。そんでもって性欲はどうなったんですか。性欲ムラムラで悟りは開けるんですか。」 「そうか、そういう話やったな。怜ちゃん、お兄ちゃん性欲によっぽど興味あるみたいやで。」 管長が続けて言った。 「今、食欲はどうだ。」 「食欲ですか。ビールも頂いて、ゆで玉子も頂いて、まだ食べれるけど、いい感じです。」 「腹が減って減って、あれも食べたいこれも食べたいという感じか。」 「いや、そんなことはないです。」 「そうだろう。それはビールとゆで玉子を食べたからなんだ。だから食欲から解放されたんだ。」 「食欲から解放、、、。」 「じゃさ。性欲はどうだ。君は風俗へ行ったことがあるか。」 「風俗?いやそれは、、、。」 「それは行ってるわ。絶対行ってる。男は行く。」 怜ちゃんはそう言って、僕を覗き込むような仕草をしてみせた。 「性欲も食欲と同じだ。欲だ。風俗へ行った後の事を想像してみたまえ。女を抱いた後は、もう性欲は起きないだろう。ブッダもそうだったんだ。20歳の愛人が毎夜とっかえひっかえやってきたら、どうだ。毎夜とっかえひっかえだぞ。しんどいぞ。つらいぞ。その時にブッダはどう考えたか想像して見ろ。もう愛人はいらないと思うに違いない。その時こそ性欲から解放された瞬間だ。」 妙な理屈ではあるけれど、僕には説得力があった。 「そう思うだろう。ブッダはね、毎日御馳走をたらふく食べて、愛人を、とっかえひっかえして、好きなことを、もうええ、もう満足やってぐらいやったんや。だから欲を感じなくなった。だから悟りを得ることができたんだ。」 「うーん。そういえばそうかもしれません。」 「えーっ。納得したん?お父ちゃんの屁理屈に納得したん?納得したんやね。、、、納得ねえ。びっくりやわ。」 「しかし、屁理屈といっても、そう言われれば、そうかもしれへん。そしたら、この寺のようなところでは、欲は丸出しでいいんですね。」 「そうや、欲は丸出しにすることが悟りに繋がるのです。」 確かに欲をなくすなんてことは、どんな聖人にもできる訳はない。 出来ないことを修行するのはナンセンスだ。 それに欲は持つべきではない、或いは少なくするべきだという考え方は、始めから欲というものは悪であるというところから発している。 仏教で「少欲知足」という言葉があるけれど、それは人間として今存在していることを否定していることになりはしないだろうか。 少欲知足が大切というのなら、人間以外の動物を見ていると、人間よりはるかに欲が少ない。 動物は、お腹が空けば、食べる。 その欲の殆どが生理的な欲である。 ストレートで単純で分かりやすい。 ということは、どうだ、動物は、人間よりはるかに清らかで、人間よりはるかに仏教の教えを実践していることになる。 猿はどうだ。 猿は人間に近い気がするから欲も多そうだ。 それなら、犬はどうだ。 猿よりは欲が単純だろう。 そしたら魚はどうなりますか。 これはもう食欲しかないだろう。 そう考えていくと、原始的な生き物の方が、欲が少ないことになる。 ということは、ミジンコなんて生き物は、少欲知足の模範的な存在であり、優れた仏教の伝道者ということになる。 ただ、猿も魚もミジンコも、そして人間も、日々それぞれが欲を満たして生きているという事は共通している。 その欲の大小や多い少ないのは差があるとしてもね。 でも、ミジンコでなく人間として、今この世に行きているのだから、その人間としての欲を果たすことが、人間として生まれてきたことに感謝することだという理屈も考えられる。 ならば、管長のいう事も、そうだなと納得できるところなのである。 僕がそんなことを考えて黙っていると、怜ちゃんが言った。 「お兄ちゃん、どうしたん。今、変な欲ださんといてね。気持ち悪いから。」 「そんなん違うよ。そんな変な欲だそうと思ってないよ。」 「もう、男はエッチやからな。変な欲丸出しにしようと思ってるはずやねん。週刊誌に書いてあったわ。パーマ屋さんで読んだし。」 「そやから、そんなエッチな欲は丸出しにしません。」 「じゃ、小出し?」 「小出しも、しません。」 どうも怜ちゃんに遊ばれる。 「管長、そしたら、ミジンコより人間に生まれてきた方が、欲丸出しに出来る分、悟りの境地に近いということですか。」 「急にミジンコって何やねん。うーん。それは、そうとも言えんなあ。ミジンコはなあ、欲は少ないやろうな。食欲ぐらいか。いや、食欲というものもないのかもしれないぞ。というか、ミジンコはどんなんやった。小さいやつやろ、動くんか。いや、プランクトンと間違えてたわ。ミジンコやろ、ミジンコ、、、。まあ、ミジンコはどんなんでも、ええわ。兎に角、小さい生き物やろ。その分欲は少ないわな。だから、悩みも少ないんや。ほとんど悩みないやろ、、、。羨ましわな。悩まんでええねんから。それもええわな。考えたらミジンコに生まれた方が楽やったかもしれんなあ。それはええなあ。あ、そうや、これ教義に入れたろかな。オケケ様を拝んだら、来世はミジンコに生まれ変われますって。いや、それは人気でないやろな。まあ、それは置いておこ。そやから、悩み少ない分、悟りも早い筈や。もう、2、3分あったら悟れるんちゃうかな。羨ましいなあ。それに比べて人間はどうや。欲は多いわな。そしたら悩みも多いねん。そやから、なかなか悟られへんのや。ええなあ。プランクトンは。」 「ミジンコちゃうの。」怜ちゃんが、すかさず言った。 聞いているのね。ゆで玉子食べてるのに、管長と僕の会話を聞いているのね。 「そしたら、どんな生き物でも、欲丸出しで生きればいいってことなんですね。」 「そうや。君は理解が早いね。やっぱり僕の後継者になるべきや。」 管長は、僕の膝を叩いた。 「ありがとうございます。でも、僕には無理です。そろそろ今日は帰ります。」 「そうか、残念やな。まあ、考えといて。」 「お兄ちゃん、明日も休みやろ。明日も来てな。待ってるから。」 怜ちゃんが、少し元気のない声で言った。 「うん。まあ考えとく。」 外に出ると、少しばかり窮屈な空間から解放され、涼しい風を吸い込んで目が覚めたと同時に、親しい友人と再会したばかりなのに、またすぐに別れなければいけないという出会いのような寂しさが胸にこみ上げた。
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