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第十五回 無拍子
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翌日、七郎は國松の元を訪れた。右腕の傷は昨夜の内に外道医(外科医)に縫い合わせてもらっていた。
「かくのごときでありますゆえ、しばし國松様のお力添えをお願いしたい」
染物屋の客室で七郎は國松と向き合い、慇懃に頭を下げた。
「かまわぬ。なあ、小太郎」
「もちろんでさあ」
國松の隣には客室の柱に背を預けた小太郎がいた。何が面白いのか、彼はニヤニヤ笑っていた。
「なあに、七郎。俺と國松様なら、香取大明神と鹿島大明みたいなもんだ。お前の出番はないぜ」
小太郎に言われて七郎は苦笑した。そうかもしれぬと思ったからだ。
國松も小太郎も、兵法の腕前は七郎以上だ。
確かに二人に任せれば、武徳の祖神のごとき頼もしさがある。
「七郎よ、休む事も余は必要だと思うがな」
國松は厳かに告げた。彼の見立てでは七郎は働きすぎている。休息も必要だと断じたのだ。
七郎は國松と小太郎の元を辞した。心は何か目標を見失ったような虚しさがあった。
血を失った事も気落ちの原因かもしれぬ。傷は深いというわけではなかったが、流れた血は元には戻らぬ。
七郎はぼうっとしながら道を歩いていた。自身の住む長屋へと歩を進めながら、七郎はおみえの事を思い出した。彼女の元には頻繁に両親が通っている。心配はないようだった……
「ーーどけどけ! どこ見て歩いてんだ!」
ふと気づくと、七郎の眼前には浪人が立っていた。衣服はあちこち破れており、体臭が鼻をつく。
が、今の七郎は心ここに在らずといったところだ。血を失ったせいで彼の思考は低下していた。
「いや、すまぬ」
七郎は右手で浪人の胸を押した。無意識にどかそうとしたのだ。押されて浪人は一歩下がった。
「お前は何様だ!」
浪人が拳を振り上げ七郎に殴りかかった。
その時には、七郎は無意識に浪人の胸に飛びこんでいた。
と見えるや、七郎の左腕は浪人の右袖をつかんで、体を回転させ技をしかけている。
浪人は優しく背から大地に落ちた。たいした衝撃ではない。浪人は何が起きたかわからず、大地に倒れたまま目を丸くしていた。周囲の野次馬もまた、七郎の目にも留まらぬ早業に目を丸くするばかりだ。
「今のは…………」
何だと、七郎は自身の技に呆然とする。働かぬ頭に、父との修行が思い出された。
“このような技、実戦では不可能だ”
そのような事を言っていた。七郎の父が祖父からーー
その祖父も、兵法の先師より型を伝えられたという。
今、七郎が無心にしかけたのは、型のみを伝えられた技ではなかったか。
そして今の身の入り方、技のしかけ方、何より無の精神こそ、七郎の父が説く武の深奥たる無拍子ではないのか。
「な、なんだあ、今のは」
浪人は立ち上がった。すでに戦意はないようだ。
七郎は惚けたように口を開いたまま浪人を見つめていたが、やがて言った。
「飯でも食うかね?」
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