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第十六回 夢想の技
七郎は浪人を連れ、顔馴染みの茶屋に来た。
「あらあ、今日は男とかい?」
「ばあさん、何か食えるものを」
七郎は馴染みの老婆に注文すると、向かいに座った浪人をじっと見た。
右目の潰れた隻眼の異相、見る者を威圧する眼差しだ。
浪人には何がなんだかわからぬままに、七郎に連れてこられた不安がある。
七郎は無意識に浪人の心の隙を突いている。
「はいよ」
茶屋の老婆は麦飯と味噌汁、焼魚の皿を運んできた。浪人は喉を鳴らした。茶屋なのだが、このような簡単な食事もあるのが不思議だ。
「まあ、遠慮せずに」
七郎が言うが早いか、浪人は飛びつくように飯を食った。
きっと何日も満足のいく食事をしていなかったに違いない。彼は目を充血させていた。
「すまぬ、ばあさん、すまぬ」
浪人は食べながら、それだけ言った。七郎には礼を言わなかった。茶屋の老婆は七郎の側に立っていたが、彼女も目元を拭った。
「……で、それがしをどうする気だ」
食事を終えた浪人は卓に着いたまま、じろりと七郎をにらんでいた。なかなか肚は座っていた。浪人の食べ終えた膳は、老婆が盆に乗せて奥へ運んでいる。
「張孔堂を知っているかね」
七郎は無表情に言った。普段のどこか間の抜けた顔ではない。これが彼の本性なのだろうか。
血を失った彼は気力体力を消耗し、余裕がないと見える。今は酒はおろか、食欲もないようだ。
「……知っているが」
「おそらく今でも張孔堂の残党はいるはずだ」
七郎の隻眼が細められて妖しい光を放った。それはまるで鷹が獲物を狙うような、殺気走った眼光であった。
浪人は背に冷や汗をかいていたが、七郎はただ辛く苦しく眠いのだった。余裕がないので眼差しがきつくなっている。
「そやつらが何をしているか調べてほしい」
七郎は懐から一両小判を取り出し卓に置いた。金のない彼にしては珍しい大金だ。弟からせしめたものだが、どうやら違う用途に使う事になりそうだ。
「彼らも首領を失っては烏合の衆に違いない。だが…… 江戸の人々に悪さをさせるわけにはいかぬのでな。お主、さりげなく様子を調べてきてくれぬか。報告はあのばあさんにしてくれればいい」
「さりげなくと言うが…… それは危険ではないのか」
浪人の顔には冷や汗が流れていた。彼も張孔堂は知っている。張孔堂の首領、由井正雪は浪人救済のために働いた男だ。文武両道の立派な男だとも。
だが張孔堂は幕府によってその大志を砕かれたーー
「俺は顔が知られている。知られていない者が必要だ。そこでお前さんを雇いたいというわけだ」
七郎、意識の消え入る限界に近づいた。そのせいで眼光は更に激しく殺気走ってきた。浪人は顔を青くしながら卓上の一両小判を握りしめた。
「や、やらせていただく。死に花を咲かすにもよい」
浪人は開き直った笑みを浮かべていた。死に花を咲かしたかったのは事実だろう。
「頼む」
七郎は静かに目を閉じ、息を吐いた。
浪人は立ち上がって店を出る前に、戻ってきた老婆に「うまかった」と声をかけた。
案外、七郎の恐喝よりも、老婆の心遣いが浪人を動かしたかもしれない。
「まいど」
老婆は微笑して軽く会釈した。いつの間にか七郎の側にやってきていたが、その気配の消し方は、ただ者ではないように思われた。
「さて、俺は帰るか」
七郎は立ち上がった。彼も早く帰って横になりたかった。そんな七郎に老婆は無慈悲に告げた。
「お勘定」
老婆の目が怖かった。七郎はさっき小判を浪人に渡してしまったので、ほとんど持っていない。
「すまん、ツケで」
「お勘定」
老婆の目が怖い。店の奥に薙刀があるのを七郎は知っていたーー
着物を剥ぎ取られた七郎は、下帯姿で長屋に戻ってきた。彼は今一つ決まらない。
静寂の夜の中を下帯一つという情けない姿で帰宅した七郎。右腕の肘の辺りに巻かれた包帯が痛々しい。
「ああ……」
七郎は布団を敷いて突っ伏した。無理もない、彼は血を失っているのだ。
命に別状があるわけではないが、本来ならば安静にしていなくてはならないのだ。
(正雪……)
七郎は由井正雪を思い出した。彼は切腹して果てたが、その志は未だ多くの人間を動かしている。
由井正雪は文武両道、仁徳も篤く、とても七郎の敵う相手ではなかった。
が、彼は焦ったのかもしれぬ。
門下三千人の熱に押され、彼は江戸の町に火を放ち、将軍を拉致するという強行策に出んとした。
それゆえに正雪は配下の裏切りという憂き目に遭ったのだ……
(天道を行く者が、天に見放されてしまうとは……)
突っ伏した七郎は目頭が熱くなるのを感じた。仁を失くした者の末路が哀れでならぬ。
「……ん」
眠りに陥ろうとしていた七郎だったが、何やら妙であった。
誰かが彼の尻を撫でているのであった。
優しい感触は女の手だ。この部屋にいる、見えない同居人の仕業ではあるまいか。
「や、やめてくれ……」
羞恥に恥じらいつつ七郎の意識は瞬時に眠りに就いた。
夢の中で七郎は亡き父に再会した。
“無駄を全て省け”
そう言って父は七郎の左腕を刀で斬り落とした。
無論、夢の中の事であるから、痛みも出血もない。
ほぼ両腕を使えぬ状態になりながら、七郎は不敵な笑みを浮かべた。
“倅、推参なり!”
七郎の父が一刀を打ちこんだ。
それを七郎は右手側に動いて避けた。
“むう!”
七郎の父は素早く刀を身に寄せ、そして七郎へと切っ先を突きつける。
父の正眼に、つけいる隙はない。
が、七郎はまっすぐに踏みこんだ。
死を恐れぬ無心の一手。
七郎は父の眼前で僅かに右へ移動し、地を這うような足払いを放つ。
柔道における小外刈りから、左足で小内刈りへ。
身を寄せてしまっている故に、父も刀を半ば封じられている。
その父へ、七郎は胸元めがけて頭突きを放つ。
更に続けて大内刈りで父の左足を払い、後方へ倒した。
“おああ!”
七郎は前のめりに、倒れるように飛びこんだ。
全身全霊、全体重をかけた頭突きを父の顔へと叩きこむ……
“見事なり!”
遠ざかっていく父の声に、七郎は会心の笑みを浮かべた。
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