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第三回 魔性
栄次郎は背中から大地に落ちて悶絶した。声も出せなくなるような苦しみが全身に走った。
「あが……」
栄次郎は庭の土の上で苦しそうに身悶えしていた。
宙に放られて、受身も取れずに背中から落ちたのだ。無理はない。七郎がその気になれば、顔から大地に落ちるように投げる事もできたに違いない。
「ふむ」
七郎、襟を正した。彼が今使った技は後世の柔道における肩車に酷似していた。
栄次郎が踏みこんできた一瞬の機をとらえ、七郎は刃を避けつつ踏みこみ、対手の股下に手を差し入れて担ぎ上げて、放り投げたのである。
書けば簡単だが、七郎は命を懸けた一瞬の最中にやってのけた。寸秒の間でありながら、大怪我を負わぬように手加減もしている。
「おい、こら」
七郎は般若の面のまま、悶絶する栄次郎の顔を見下ろした。
「お前は奸物だからこうやって天誅を与えるのだ…… 兵法だ何だと腕が立っても正義は許さんぞ」
言って七郎は面の奥で苦笑した。自己評価では彼は正義ではない。
「お、おのれえ……」
「たわけ」
七郎は懐から扇子を取り出して、栄次郎の額を打った。それで栄次郎は失神した。
「女をてごめにしたのだ、これから一生をかけて償うがいい」
そう言って七郎は立ち上がった。そして背筋に悪寒を感じた。
背後に誰かがいたのだ。
「かなりの腕前……と、お見受けいたしました」
若い男の落ち着いた声が七郎の耳に届いた。
七郎はゆっくりと背後に振り返った。そこにはきらびやかな着物に身を包んだ青年が立っていた。
「何者だ?」
七郎は全身に冷や汗を流していた。もしも、この青年が七郎の命を狙っていたならば、九分九厘まで命はなかった。
「我が名は四郎」
若者は名乗った。微かな笑みを美しい顔に浮かべていた。
「四郎……」
七郎は若者の名をつぶやいた。同時に、とある出来事が心中に渦を巻いた。
それは彼の異母弟であった。先の三代将軍の小姓を勤め、剣では七郎も又十郎も及ばず、将来は大藩の殿と約束されていた人物だった。
その異母弟と、目の前の四郎はどこか似ていた。美女のような顔と落ち着いた雰囲気がだ。
若い頃の七郎は、異母弟の悟りを開いたような雰囲気がどこか好きになれなかった。
「何か用かね?」
七郎は般若面の奥から四郎に尋ねた。四郎には敵意や殺意、悪意などは感じぬが、得体の知れぬ存在である事に間違いはない。
もしや人外の者か、という思いがなくもない。それほどに四郎は儚く感じられた。幽幻の世界から現れ出でた、美しい幽鬼のようですらある。
「ふふ、ただ汝の行いがあまりにも見事なもので、足を止めて見物していた次第」
そう言って四郎は微笑した。見る者をはっとさせる、純粋な笑みであった。
七郎も思わず目頭が熱くなるのを感じた。人を斬った過去のある七郎は、四郎の微笑に自らの罪を突きつけられたような心地がした。
ああ、この四郎という若者は何者なのか。七郎は夢を見ているような心地すらした。
「あ~……」
女の声に七郎は振り返る。またもや油断していたのか、背後に人の気配を感じるとは。七郎の父が生きていれば「未熟」と一喝したやもしれぬ。
「おお~……」
声の主は四郎と同じく、きらびやかな着物に身を包んだ美女であった。彼女は、倒れた栄次郎の顔に己の顔を近づけていた。
接吻でもしたのかと思ったのも束の間、栄次郎の体が激しく震えだした。
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