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第六回 降ってきた娘
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さて七郎は自身の住む長屋の一室に、おみえを住まわせていた。身籠っている上に齊藤家からは逃げ出した身だ。
齊藤家は取り潰しになる事が決定しているが、伝えていいものかどうか七郎は悩んだ。
「まあ、しばらくしてからにするか」
そう考え、七郎は新たに長屋を一部屋借りる事にした。おみえと一緒に住むわけにはいかぬ。
長屋の大家の元を訪れると、彼は子分をぶん殴っていた。怒鳴りつけていた大家だったが、七郎の姿を見つけるや否や、嘘のある笑顔を浮かべた。
「へい、らっしゃい!」
この大家かなりの悪だなーー
七郎はそう思ったが口には出さぬ。とりあえず彼は今日からでも住める部屋を紹介してもらった。
「……ふむう?」
七郎は上がって、長屋の室内を見回した。
柱に斬りこんだ跡がある。おそらくは鉈のような重い刃物で斬りこんだ跡だろう。
畳をはがすと、血痕らしき黒い染みが床板にこびりついていた。
多少の不安を感じつつも、彼は住む事にした。四郎という人外の存在を知った今、彼は行動しなければならぬ。
この日、七郎は馴染みの茶屋で半日を過ごした。店の老婆と語らった後に長屋へと戻り、畳に大の字になった。
そして七郎は夜半に目を覚ました。うとうとしながら、ふと頭を回すと、部屋の隅に後ろを向いて座りこむ女の姿があった。
(なんだと)
七郎はすぐさま頭を戻した。部屋の中に見知らぬ女がいるという事態に、彼は狼狽した。
(の、のーまく、さんまんだー、ばーざらだん、せんだー、まーかろ、しゃーだー、そわたや、うんたらたー、かんまん……)
必死になって七郎は不動明王真言を唱えた。
いつしか朝陽が昇り、一番鶏が鳴いた頃に七郎はそっと身を起こし、部屋の隅を見つめた。そこには誰もいなかった。
震えが止まらぬ七郎。どうやら彼は女難から逃げられぬ運命であるらしい。
**
漁師の三郎は小舟で川を下っていた。彼は川魚を獲るのを生業にしていたが、この日は全く網に魚がかからない。
「不漁だなあ」
三郎はため息をついた。彼の暮らしは裕福ではない。長屋の一室を借りての一人暮らし。父母もすでに他界しており、天涯孤独の身である。
父の遺してくれた小舟と、教わった川魚漁の技術だけで生きている。
が、それだけでは満たされぬ。江戸には浪人が集まってきており、治安も悪化していた。
先の三代将軍が行った改易の嵐によって全国にあふれた浪人は十数万人、江戸にも数万人が集まってきているらしい。
生活苦と治安の悪さに、三郎も深いため息が出た。そして空を見上げた。彼の小舟は川の流れに乗って、ちょうど小さな橋の下を通過しようとしていた。
「ん?」
三郎はこの時、橋の欄干に立った人影を見た。その人影が飛び降りたのもーー
「おわ!」
三郎は小舟の上で悲鳴を上げた。彼の上に人が降ってきたからだ。衝撃で小舟は激しく揺れた。
「……な、なんだ! 空から娘さんが!」
三郎は己の上に落ちてきた人物を抱え上げて叫んだ。
橋の欄干から飛び降りてきたのは、まだ若い娘であった。彼女は気を失っていた。
三郎は娘を抱えたまま黙った。その頬は紅潮していた。三郎は二十代半ばに差しかかるが、女とは縁がないまま生きてきた。
彼が抱えた娘の年頃は二十歳前といったところだ。目を閉じ気絶しているが、美しい娘だった。着物越しに伝わる女の肌の柔らかさと温かさ、そして女の匂いが心地よかった。
三郎は理性を保ちつつ、娘の顔を見つめていた。帰宅するまで見ていても飽きなかった。
三郎は娘を長屋の自室に連れていき、寝具の上に横たわらせた。
天から降ってきたような出会いであった。あるいは娘は本当に天女の類であったかもしれない。
「何も覚えていません」
目を覚ました娘は、三郎にそう語った。申し訳なさそうに伏し目がちである。
その儚い様子に三郎の胸は高鳴った。産まれて初めて高鳴った。彼も気の荒い漁師とたまに喧嘩になるが、それとは違う興奮があった。
「しばらくここにいろ」
三郎はまっすぐ娘を見つめた。強い眼光が娘の心を射抜くかのようだ。おそらく三郎は産まれて初めて必死になっているのだ。
「そんな、ご迷惑は」
「俺が食わせてやる。安心しろ」
三郎に下心がないと言えば嘘になるが、それよりも娘を手放したくないという気持ちが強かった。
今この瞬間、三郎は男になった。
一点の迷いもない眼差しは、戦場の勇士さながらだ。
娘はただ静かに彼を見返していたーー
「……名前」
「え?」
「あたしの名前…… らしゃ。らしゃよ」
娘は、らしゃと名乗った。名前だけは覚えていたのか。
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