第八回 三郎とらしゃ

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第八回 三郎とらしゃ

   **  三郎の生活は一変した。  一人から二人の生活になったのだ。  己一人が餓えて死ぬならばまだ良いが、らしゃを食わせなければならぬ。  目の色を変えて働く三郎。だが簡単には報われぬ。彼の必死の思い虚しく、数日も不漁が続いた。  長屋に戻った三郎をらしゃは笑顔で出迎えた。その笑顔に癒される三郎だが、だからこそ大きなため息が出た。蓄えがないわけではないが、これから、らしゃを食わせていけるのか。 「あたしに任せて」  らしゃは言った。三郎の心はなぜか落ち着いた。  翌日、三郎はらしゃを小舟に乗せて漁に出た。  女を連れて漁に出る者など、三郎の知る限り、江戸の町にはいない。  なので三郎は、らしゃに男物の服を着せ、ほっかぶりもさせた。らしゃもこの方が良いと言った。  朝、漁に出て昼近くまで川魚は一匹も捕れなかった。三郎はともかく、らしゃは落ち着いていた。 「おまえさんがいてくれるから、あたしは満たされるのです」  らしゃは、そう言った。その菩薩のような微笑が三郎の心を訳もわからず満たしてくれた。 「あ、あそこ」  らしゃが慌てたように川の水面を指差した。三郎も息を合わせて、網を川に広げた。  しばらくして網を引き上げると、ばしゃばしゃと激しい水音と共に大きな鯉がかかっていた。三郎ですら滅多にお目にかかれぬ大物だ。 「ほお、大物がかかったではないか」  岸から声をかけてきたのは、通りすがりの武士だった。  この武士は、なんと七郎の弟の又十郎ではないか。この日は登城する仕事もなく、供の者を連れて散歩に出かけていたらしい。  それにしても武士が漁師に声をかけるとは、なんと珍しい事か。又十郎は兄の七郎とは違って厳粛なる人物に思われていたが、案外にして兄弟よく似ているのかもしれぬ。 「お、お侍様! 御頼み申し上げます!」  三郎は小舟の上で平伏した。彼は又十郎の身なりを見て、ただの武士ではないと感じたようだ。 「ふむ?」  又十郎は何か言いかけた供の者を制して、岸から三郎とらしゃを見下ろした。  三郎の目は真剣だ。昨今の武士には見られぬ必死さがある。立ち合いにも似た緊張を感じ、又十郎は三郎に声をかける。 「いかがした?」 「こ、この鯉を買っていただけませんか!」  平伏したまま顔を上げている三郎の気迫が又十郎には好ましい。彼の父も気に入った者は身分が低くても取り立てたので、かの沢庵禅師にひいきある事をたしなめられたという。  やはり親子で似るのだろう、又十郎は三郎とらしゃを交互に見つめて微笑した。 「ふむ、買ってやろう。これ」  又十郎は供の者の方を向いた。供の者は渋々といった様子である。 「これほどの鯉となると相場はいくらか知らぬが…… これ、少し勉強してやれ。この者、妻を食わせるに命を懸けているようだからな」  又十郎は、ほおっかぶりをしているらしゃを女と素早く看破していた。  三郎はらしゃと共に長屋に戻り、しばらく黙っていた後、声高く笑った。 「やったぞ、らしゃ! お前のおかげだ!」  三郎はらしゃを力強く抱きしめた。らしゃは抵抗しなかった。ただ微笑したまま彼の背に手を回した。 「おまえさんが一生懸命だからだ」  ただそれだけをらしゃは言った。三郎はらしゃを抱きしめたまま涙をこらえた。  女のために命を懸ける男の、感動の涙であった。
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