第二回 無刀取り

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第二回 無刀取り

   **  明けて翌日の昼には、七郎は女をーー  おみえを連れて長屋の一室にいた。おみえは先日、身投げから助けた女である。  しかも彼女は身籠っている。よほどの事情あるを知り、七郎はおみえに世話を焼く事にした。  たとえ裏切られようと最善を尽くす事から始めたのだ。 「俺が借りている部屋だ、気がねなく使え」 「はあ……」  おみえはあっけに取られた。自身の運命の変転についていけぬようだった。 「お前さんが勤めていた家、どうなったか調べてみよう」 「あ、あの…… 私の両親を……」 「うむ、やれるだけの事はやってやる」  そう言って七郎はおみえを残し長屋から出ていった。 (旗本の齊藤家か)  七郎はおみえの事情を知った。  彼女は八百石旗本の齊藤家で奉公していた女なのだが、そこで息子に手をつけられた。  同意ではない、立場を傘にして無理矢理てごめにされたらしい。 (むごいな)  何度かそんな事があり、おみえは遂に身籠り、屋敷から逃げ出したという。  住み込み女中であり、両親の生活負担を減らそうとしていたが、その思いも限界だったようだ。 (これも何か縁があってかな)  七郎は苦笑する。おみえを助けようとして袋叩きにされてしまった。こんな事に遭っては、なんとかせねばならぬ。 (局様もそうであったなあ)  昔日を思い出し、七郎は苦笑した。その時も彼は無茶な頼みを聞き入れて、命を懸けねばならなかった。  その日の夜、齊藤家の屋敷の庭で息子は黙々と真剣で素振りを繰り返していた。  息子の名は栄次郎という。本来は次男だが、数年前に兄が病死したので家督を受け継ぐ事になった。  幼い頃より積もりに積もった鬱憤が彼を暴走させていた。屋敷に住み込みで働いていた女中のおみえに手をつけ、遂に彼女は逃げ出してしまった。  金も自由に使えるようになったので、散々な贅沢をし始めた。着物、珍味、酒、刀などの武具……  泰平の世では、ほとんどの旗本が武具を粗雑に扱い、蔵に入れたまま埃をかぶっているという状態だが栄次郎は違っていた。  ーー再び戦乱の世を!  それが彼の秘めた願望であった。 幼い頃から武芸に打ちこんできたのは鬱憤晴らしであったが、成人して家督を受け継いだ立場になって、彼は変わってきた。  旗本の次男坊は冷飯食いなどと言われるが、彼もまたそうであった。  家督を継ぐ立場になれば、上役の武士とも接さねばならぬ。  刀の抜き方も扱い方も知らぬ名ばかりの武士が、偉そうにしているのが栄次郎は気に入らぬ。  いや、おみえも栄次郎に対してそのような気持ちを持っていたが、彼はそれには気づかないーー  ーーひゅ  突如、小石が投げこまれ、栄次郎の足元で弾んだ。  栄次郎は素振りを止め、小石の飛来した方へと目を向けた。  彼は一瞬、息を呑んだ。  いつの間に現れたか、屋敷の庭に人影がある。  月光に照らされたその顔は鬼女ーー  いや、黒塗りの般若の面であった。人影は全身黒ずくめだ。それが栄次郎を、射抜くかのように、まっすぐに見つめている。 「な、何者」  栄次郎の戸惑いも一瞬だ。彼は冷静に般若面を見つめている。 「閻魔……の女房。鬼女だからな」  般若面は声を発した。これは七郎の声だ。  ーー思っていたよりできるな。  七郎は面の奥から栄次郎を探る。刀の扱いには慣れている。戦乱の世の再来を望む男だけに、 伊達に武に励んでいるわけではないようだ。 「な、なんだと?」 「女の恨みを晴らしに来た。覚えがあるだろう」 「うぬ」  栄次郎、唇を噛みしめると同時に、刀の峰を右肩に乗せた。そうして般若面の七郎をにらみ据えた。 「おのれ、妖怪!」  栄次郎は踏みこみ七郎に一刀を打ちこんだ。  夜の闇を切り裂く必殺の一刀だ。  が、七郎は踏みこみつつ刃を避けている。  栄次郎の足元に屈みこむや否や、右手を股の下に差し入れた。 「うわわ!」  悲鳴を上げたのは栄次郎であった。彼の体が宙を舞った。
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