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* * *
昨日よりも更に強くなった雨音を聴きながら、目を覚ました。しばらくじっとしていると、段々とそういう音楽のようにも思えてくる――雨漏りにより床に小さく水溜りができていた。頭をがしがしと掻きながら伸びをする。
夢見はよくなかった。どんな夢を見たのかはよく覚えていなかったが、胸糞悪くなるものだったのだけは覚えている。
この雨のせいだろうか、と外を見やる。それから、少し涙が流れているのを感じ、目の下を拭ってみると僅かに湿っていた。いい歳にもなって恥ずかしいものである――ふと何気なしに隣を見て、軽く驚いた。ハオが、そこで寝ていたのだ。
彼は安らかに寝息を立てて、自分の鞄を枕がわりに眠っていた。おかしいな、と失礼を承知でハオの携帯で時間を見る。一度ホテルに帰って、そして戻ってきたにしては早すぎる時間帯だ。そもそも綺麗好きのように思えた彼がこのような場所で眠ること自体、俺にはにわかには信じられないことであった。
「お、おい、ハオ」
兎にも角にも、彼を起こすのが先決だと判断し、俺は彼の身体を揺する。ハオはすぐに目を覚まして、俺と同じように伸びをした。
「……ああ、首、痛いです」
「まァ、そうだろうな」
「よく眠れました」
「よく眠れたって……お前、結局ホテル帰ってねぇのか」
「え、ええ」
それから、彼は大きく欠伸をした。どうやら俺が泣いていたことには気づいていないようである――密かに胸をなでおろした。
「帰るのが面倒になっちゃったもので」
彼は、外を見ながら言い訳じみた口調で言った。
「……確かに、この雨じゃあな」
昨日に引き続き、雨が止む気配はない。風が強くなっているあたり、台風か何かでも来ているのだろうか。新しいペットボトルの水を掴んで、一気に飲み干す。
「ってことは、ずっとここにいたのか」
「ええ、まぁ、はい」何かを喉の辺りまで出しかけたような表情である。一瞬だけ、彼の目線は虚空を漂った。
「なんか隠してるみたいな言い方だな」
「い、いえ。そんなことはないですよ」
ハオはわざとらしく両手をひらひらと振った。まさか寝ている間の写真でも撮ったのかと思ったが、そう尋ねる前に否定された。
「嘘だと思うなら、カメラ見てくださいよ」
言われて、ハオのカメラのデータを横流しに見ていく――暁闇街の写真が少し取られているだけで、俺は写されていなかった。そうでないならば無闇に詮索する必要もないと思い、俺はカメラを返した。
「まァ、いいけどよ」
少し肌寒く感じたので、少し厚手のパーカーを羽織る。いつもの癖で、フードを被ってしまうが、これもあまり気にしない。細かいことは大して問題ではないのだ。
今日はどうするか、と俺は雨の降りしきる外を見やりながら、思案していた。台風が来るならば早いうちに食料を調達しておきたいところである。水は最悪、雨水で十分だ――俺は水たまりのできるあたりに空のペットボトルを置いた。この調子ならば、昼を過ぎる頃には十分に溜まっていることだろう。
「さて、何ができるかねぇ……」
言いながらハオを見ると、彼はちょっといいですか、と言った。
「また一つ質問が」
そしてノートを開いて、俺の返答を待った。別に構わない、と言葉の続きを促す。
「大したことじゃないんですが、暁闇街とか明星街に住所とかってあるんですか」
「通りの名前くらいは、調べれば出るんじゃねえのか?」
「ああ、いや、そうじゃなくてですね」
「いや、住所か。悪い、間違えた」
言ってから、ふむと腕を組む。そもそもこんな場所で住所など存在しても、役所が機能していないためあまり問題にはならないのだが、実際のところ住所と呼べる概念は存在している。
「俺はあまり気にしたことねぇけど、一応あるぞ。郵便配達とか、月一、二くらいのペースだけど来たりする」
郵便配達、とハオは復唱する。
「まァ、明星街と暁闇街の境目まで運んで、そっからはドゥーショの管轄って感じだが、な」
暁闇街の人間に手紙や小包を出す人間などいるわけがない。国際機関からの援助などはもってのほかだ。郵便とは言うものの、実際のところリェン=ドゥーショ宛ての小包がメインである。
「それって……危なくないんですか」
「何がだ?」
「何って……そんな、無法地帯に」
その言葉に俺は少し息を漏らしてしまう。
「今更、何を言ってるんだ」
言うと、ハオは少し身震いした。
「……そうでした」
それから、ハオはノートにペンを走らせた。命を張って取材しようという姿勢は、ジャーナリストとして大切かもしれないが、果たして本当にそこまでの覚悟ができているのか、と思った。
知らない奴は知らないままだ。――しかし無知が悪いわけではない。かといって、平和に溺れるのが悪いというわけでもない。知りすぎるのが正義なわけでもない。結局のところは「本当の覚悟を知らない」ということに帰結する。
「……未知の領域、か」
「……え、なんですか?」
「いや――」
――壁を、叩く音がした。
誰だ、と咄嗟に身構えるが、そのノック音は続けて二回、三回――五回、鳴った。フェンかよ、と俺は入り口の方に呼びかける。驚かすなよ、とも。
ゆっくりと、彼は長い黒髪を雨に濡らしながら、傘もささずに現れた。風にはためく左腕の袖から、水滴がとめどなく落ちている。白を湛えた肌が艶めかしく濡れていた。
「ゆ、ユウヤさん……」
ハオが女々しく俺の服を掴む。大丈夫だと言うと、彼は恐る恐るながら裾を離した。
「まだ、生きてたな」
「あァ、互いにね」
彼は右手で前髪を払い、雨粒を落とした。
「まァなんだ。座れよ」
言うと、彼は小股に建物に入ってきた。そして、極めて流麗な動作で俺の目の前に腰を下ろす。彼は俺の背後で隠れるようにするハオを一瞥し、少し溜め息をついた。
「ユウヤ、まさかって感じだよ」呆れた、と言わんばかりに片目を閉じる。「君が、ねぇ」
「失望か、遅いもんだな」
「……いや。失墜、かな」
「中々辛辣じゃァねぇか」
「それとも少し違うのかな――よく分からない気持ちだよ」
フェンは手で顔を覆った。
「嫉妬か?」
「それとも、違うみたいだ」
「ハオほどじゃあねえが、お前も女々しい奴だ」
鼻で笑い、長ったらしい髪伸ばしやがって、と呟く。邪魔だろうに、と更に続ける。しかしフェンは何も答えず、代わりにハオが控えめに口を開いた。
「……あの、ユウヤさん……」
今度は俺が溜め息をついた。
「……誰だ、って言いたいんだろ」
「は、はい」
「フェンだ。結構古い仲で、今はドゥーショの幹部だっけか?」
確認するようにフェンに投げかけた。「正確には『体質者監視役』、かな」「知らねぇ間に出世しやがって」しかし、俺の茶化しには大した興味も示さず、建物の入り口の方に目を向けた。
「酷い雨だ」
「だろう、な。台風か」
「この時期に、か」
カレンダーなどはないが、時期としてはそろそろ秋に入ろうとする頃である――内陸部の方には台風が来ることはないが、九龍半島から鴻業城にかけて被害に遭うことはある。仕方ないことだ――自然には誰も逆らえない。
「来ちまったもんはしょうがねェよ」
「そう、だな」
フェンは軽く頭を振った。前髪から垂れてくる水滴を払うためだろう。
「拭かねぇのかよ」
彼の服から流れる雨水が床を少しずつではあるが、侵食していた。「風邪、ひくぞ」
「どうせまた濡れる」
「傘くらい持ってこいよ」
「そんなもの、買う金もない」
「ンなもん、どこにでも落ちてるだろうが。拾えよ」
「仮にもドゥーショの幹部が、拾った傘さすなんてできるか」
「あァ、そうかよ」
考えてみれば当たり前である。ドゥーショは鴻業城を根城にする世界最大クラスの組織だ。外部のマフィアやカルテル、テロ組織たちと交渉する時にはそれなりの品格が必要になってくる。裏の社会でも、身なりは重要である。
「シドなら、やりかねないな」
「そうだな、アイツならな」
しかしそれは冗談などではなく、憂さ晴らしにも似た軽口であった。
「それで、何の用だよ」
彼は少し目を伏せた。昔からそうである――良くない話をする時の癖だ。
「少しマズイことだ」
「何だ、それ」
彼は俺を宥めるように手のひらを振った。
「焦らせるなよ」
「……相変わらず、回りくどい奴だな」
言うと、フェンはまた片目を瞑った。
「……もう僕の態度で、分かってるだろ?」
ほんの刹那、雨の音が建物に反響した。湿った空気が肺を満たし、泥臭い香りが漂っている。ハオが、軽く身震いしたのを感じた。
俺はおどけた口調で返す。
「……何だ、それ」
もしかしたら、少し声が震えていたかもしれない。
「知らねぇな、俺は馬鹿だからよ」
虚勢を張ってみせるが、我ながら酷いものだと苦笑してしまう。フェンは既に俺の内心に気がついているのか、彼は溜め息をついた。
「ふざけるなよ――長い付き合いだ、言わなくても僕の言うことは分かるだろ?」
「おォ、分かったぜ。九龍城砦に帰る、とかか?」
ふざけるのも大概にしろ、と今度は少し語気を強めて、俺を睨んだ。「分かった、悪かったよ」それから、彼に続きを促す。
「シドが、トーアとオネを使った」
「……それで、何だッてんだ。まさか、掃討戦でも始まるのか?」
「もしくは戦争、か」
フェンが俺の背後に目線を移した。ハオが疑問符を浮かべ、同時にその視線から逃げるように俺の背中に隠れた。
「要するにハオ君の、監視だ」
ハオが、全身を強張らせたのが伝わった。何も言わないが、明星街を見る中で感じてきた恐怖が破裂しかけたのだろう。
「ユウヤ、さん……」
助けを求めるような声を出す。女々しいのは結局のところ誰なんだか、とフェンは少し苦笑した。しかし目は真っ直ぐに俺を見つめていた。
「……監視、か」
「見方によれば、まだ救いがあるんじゃないかと思うな」
「……そうだ、な」
俺は小さく溜め息をついた。
遅かれ早かれこうなることは予想していたが、あまりにも早すぎる。ハオが鴻業城に来た時から目をつけていたとしても、少し異常なのではないか――。
否。俺は首を振った。大方、事の発端はネグドだ。基本的にネグドはザノや他の幹部たちとは話さない。恐らく、ネグドが部下に情報を流し、そこから間接的にザノたちへ情報が伝わったのだろう。
「最近は記者なんて滅多に来ない。ましてやハオ君は、末端とは言え中国大手の局員だ」
「……だから、警戒に値するわけか」
「だろうね。でも、流石に出会い頭に処分ってことはないだろう」処分、という言葉にハオは反応した。取ってつけたような弁明をフェンは漏らした。「一応海外の法は適用されるんだから」
「……どういう、ことですか」
ここでハオが初めてフェンに問いただした。フェンは意地悪く笑った。
「分かってるのかい。僕は今、君を狙う側の人間だ。ユウヤがいなければ、君はとっくに死んでるかもしれないんだよ」
彼の息が一瞬止まるのを感じた。しかし生唾を飲み込んで、無理に溢れ出そうになる何かを押し殺しているようであった。
「……記者として、真相を報道するのは義務でしょう。ここが未開の街だから、僕はこの街に来たんです」
「へぇ」
フェンはにわかに笑って、俺に言った。
「――真相、か。ユウヤ、報じられるかもな」
「その時は、コイツを殺しに行くさ」
「そんなこと、お前にできるかねえ」
「黙ってろよ、フェン」
しかし、と俺はハオを見た。
根性のない奴だと思っていたが、それなりに覚悟はあるらしい――少なくとも、世間一般には。フェンの目が語っていた。――僕よりも、君から話した方がいいだろう?
俺はフェンの眼光に半ば押し負ける形で、やれやれと呟いてから、口を開いた。
「ハオ、海外の法って言うのは、例えばお前がここで死んだとして、そうしたら死因がどうであれ中国政府が黙っちゃいねぇってことだ」
フェンが頷いた。
「法を犯してまで取引をする奴らと違って、正式に入国してきた奴らには国の法律が適用されるンだよ」
治外法権か、領事裁判権か、なんて言ったっけな――俺は頭を掻くが、すぐにどうでもいいかと判断して、続きを話す。
「ただ、目に見える法を犯した奴にはそんなもん通用しないと思っとけ」
「それって……」
「例えば裏カジノだ。そこで借金作れば、ソイツはもう人間以下に見られる。明星街と国との、暗黙の了解だ。だからどんな法律も意味をなさねぇし、裏カジノに手を出した時点でソイツは犯罪者だから、自業自得ってことで国も見て見ぬふりをする」
「……なんですか、それ」
ハオの手が僅かに震えていた。国に見捨てられた人間、それをリアルに想像してしまったのだろう。しかし、悲しいことに鴻業城にいる者のほとんどは、元からそういう人間ばかりなのだ。
帰る場所もない。国に見放された者たち。
異常に惹かれるままに堕落した、元人間。
「……鴻業城は元々『何が起きてもおかしくない』街だ」
ハオは頷いた。恐らく、入国する際にその手の書類にサインなどしていているのだろう。
「お前みたいに真っ当に入ってきた奴に何かあれば、建前として身柄を返してもらおうとするが、違法入国した奴にはもう帰って来るなとか言わんばかりに突き放す」
そこでフェンが口を開いた。
「だから、僕らドゥーショもそれを承知の上で違法者を解体したりする」袖から見える彼の隻腕が、風に揺られてはためいていた。彼は左腕で断端のあるであろう位置を押さえた。それから、僕の腕は別にそれとは関係ないんだけれど、と付け加えた。
「……何かあったのか」
「何でもないことだ。今日も一人、処分された」
「よくあることだな」
「ああ」
俺はハオの方を振り返った。
「とにかく、お前は真っ当に入ってきたんだろ」
「は、はい」
「なら大丈夫だ。ドゥーショが簡単に手を出せるものじゃねぇ」
半ば自分に言い聞かせるように言っていることに、遅れて気づいた。いつの間にか、俺はハオに無事に帰国してほしいと思うようになっていたようである。
――いや、この話の流れだからだろう。何らおかしくはない、一時の感情だ。それに、もし本心でそう思っているならば、その時はその時である。本気で彼を警護すればいいだけだ。
「お前が死ねば、鴻業城は中国政府を敵に回すことになる」
まさかドゥーショもそんな無謀なことはしないだろう――所詮、希望的観測でしかないが。
フェンが頷いた。
「シドも、それは承知しているはずだ」
なら問題はない、と俺はハオの肩を叩いた。
「……はい」
「俺が近くにいる。問題なんかねえよ」
内心は本当にそれで済めばいい、と思っていた。正直なところ、ハオの取材を受けた当初から、俺自身が再度ドゥーショに狙われることになるかもしれないとはある程度察していた。むしろ早いうちに内情をリークしてもらったのはまだ幸運だったのかもしれない――今からあれやこれやと後悔するよりも、与えられた状況下で生き残る場面を想定するのが先だろう。
「で、ユウヤ。取材は続けるのか?」
「さァ、それは本人に訊かねぇと」
後ろで黙りこくっていたハオを見た。
「どうする。俺はお前に合わせようじゃねぇか、乗りかかった船だしな」
ハオは俺を、次にフェンを見て、そして俺に視線を戻した。先日までの虚を見る目が、今は像を結んでいた。
「お前は、どうしたい」俺はもう一度問うた。
彼は三十秒ほど沈黙し、そして俺を一度見て、深く頭を下げた。
「……取材続行、お願いします」
フェンが少し笑った。「物好きもいるものだな。下手すれば命を落とすことにもなるのに」
「それでも、構いません」
依然として怯えるような様子ではあるものの、しかしその目はどこか毅然としていた。腹をくくった男の顔だ、と思った。
「オーケー、お前が言うなら付き合おうじゃねぇか」
そしてフェンに向き直った。フェンは少し息を吐いて、やれやれ、と呟いた。
「晴れて僕も共犯か」
「リークしてる時点で今更だろうに」
彼は一度頷いた。「間違いないな」
「それで、訊いておきたいんだが――オネとトーアはどう動いてるんだ」
「オネは地下街の監視、トーアは明星街の監視だな。でも、トーアは駄目元らしい」
「アイツは、自由に動くからな」
「案山子の状態はどうなんだ」
「今のところ動くヤツはいない。眼だけ機能している」
それでも厄介なことには変わりないが、ひとまず最悪の状況ではない。余裕があるわけではないが、切羽詰まっているというわけでもない。
リスクを減らしに行くならば案山子を潰しながら移動した方がいいだろうか。逆に挑発と受け取られてしまうだろうか。そんなことを、頭の片隅で考えた。
「ネグドは全て監視できているのか」
「正確には分からないが、多くて六割くらいだ。でも、全部警戒した方がいい」
「他に監視者は増えそうか?」
「特にないはず。加わるとしても、直接的な被害はないと思う」
急遽「監視」から「抹殺」に移行された場合がもっとも厄介である。ドゥーショ下っ端と、案山子とで、正直俺もハオも無傷では済まない。この場合、俺たちが死ぬ可能性の方が高かった。
その選択肢は絶対に避けてほしいところであるが、ないとは言い切れない。しかし生憎ながら、俺の体質は革命軍のように攻撃特化型ではない。逃げるしかないだろう。
「……ドゥーショにとってハオは、どういう立ち位置だ」
「穏便に済ませたいけれど、今は厳重に警戒すべき人間ってところかな」
冷静に考えてみれば当たり前である。しかし、ドゥーショ側も平和に終わらせたいという気持ちがあるのならば、まだ多少の猶予は残されていた。
「逆に、今の俺の立ち位置は」
「『ユウヤならばハオを泳がせることはしないだろう』かな。ザノはそう思ってるみたいだけれど」
ならば俺とハオが接触しているのはドゥーショ側にとっては最終ブレーキなのだろう。それを分かっているのならばオネもトーアも、案山子も使わないでほしいところである――単に、俺に信用がないだけかもしれないが。
あるいは――俺は今朝見た夢を思い出した。まさかな、と悪い想像を拭い去る。だが、もしかしたらということもある。全ての可能性を想定に入れておくことは重要だ。ことこの鴻業城においては。
「――なるほど」
とどのつまり、ドゥーショとしての理想は「最小限の情報で」「鴻業城の機密は報道せずに」「出来るだけ穏便に」済ませたいところなのだろう。ならばトーアは殺し屋としてではなく、どちらかといえば探偵として雇われたと考えるのが妥当だろうか。
「……オネとトーアって、強いのか」
「オネは情報戦に強いかな。トーアはそこそこだけど、正直シドの方が強い」
シドの名に反応してしまう。冷や汗が滲んでくるのを感じながら、口を開く。
「……なァ、シドは、ヴェルデさんとかガラハより強いか?」
フェンは苦笑気味に頭を掻いた。
「馬鹿言うな、ガラハが文句なしに一番強いよ。全盛期のシドでも勝てないって。まあ、微妙なところだけど二番がヴェルデさんだろうな」
なるほど、と俺は頷いた。
「もしかしたらだが、案外どうにかなるかもしれねえ」
「シドに勝てるかもしれない、と?」
「いや、勝てない前提で動く。エンカウントすれば流石に戦うが、極力避けていきたい」
「良い心がけだ」
「全盛期のシドでないにしろ、脅威は脅威だ」
言って、ガラハが既に処分されていて相当助かった、とフェンに悟られないように安堵する。正直、味方になってくれたかもしれないヴェルデさんもいなくなってしまったのは悲しいことであるが、それでもシドがガラハより弱いというのを聞いて、決して慢心などではないが――少し余裕ができた。
「……ガラハは化物だったな」
「……ああ」
ハオを差し置いて、フェンと二人で身震いしていた。仮に今回、シドの代わりにガラハが動いていたとすれば、ハオの意見に関係なく俺は下りるだろう。彼は規格外も良いところである。それはフェンも重々承知しているはずだ。
俺はゆっくりとフェンを見据えた。
「……なァ、トーアかオネ、どっちか任せられるか」
フェンは少し微笑んで、右腕を俺の方に突き出した。
「一応訊いては見るが、正直オネは厳しい――代わりに、必ずトーアを無力化してやる。可能だったら案山子も三割は減らしてやるよ」
「上等だ、頼りにしてるぜ」
俺はフェンの拳に自分の拳をぶつけた。
昔はここにキアもいたものだけど、とフェンは漏らした。思わず俺もそれに同意してしまう。今となっては素直に、十年前が懐かしいと感じてしまう――キアは、今どうしているだろうか。
「……ああ、そう言えば」
フェンが、思い出したかのように口を開いた。
「あ? なンだよ」
少し言いにくそうに、数秒躊躇って、彼は俺から目を逸らした。
「言いにくいことか」
「あァ……まァ……、聞けば君が不機嫌になること、かな」
「何だ、それ」
「シドが、君についてのグラフィティアートを描いた」
「何だ、それ。内容は、どんなんだ」
「『ドゥーショ末端に通達』」
フェンは一呼吸置いてから、続きの言葉を発した。
「『ユウヤを見つけ次第、シドに連絡しろ』」
「ふむ」
俺は少し考えて――遅れてその言葉の意味を理解して、そして大きく溜息をついた。手を顔に当て、やめてくれよ、と言う。
「……ンだよ、結局正夢じゃねえか」
そう呟くと、フェンはすぐにそれを察したのか、何か言おうとしてくる。
「……ユウヤ、別に――」
俺はフェンの言葉を遮った。「あいつも、よく言えたモンだな」それから、細く息を漏らし、穴だらけの天井を仰いだ。
そして再度、言う。「何だ、それ」同時に、今朝見た夢の内容を全て思い出した。――クソが、あっさり手のひらを返しやがって。俺は顔をしかめたが、フェンもハオも気づかない。誰にも俺の表情なんて、気づきようがない。泣いていようが、笑っていようが、怒っていようが、気づけないのだ。
代わりに俺は、多少の怒気を含ませて、言った。
「ドゥーショに関しては、何度も言っている通りだ。シドも昔言っただろう――『お前が見ているものは本当に正しいのか?』ってな」
「……なァ、ユウヤ。君の見ているものは」
「あァ、間違いばかりだ。だから、見えているもの以外で正すんだよ」
「ハオ君も、か?」
今まで黙っていたハオが、僕のことかとでも言わんばかりに反応した。俺は首だけで振り返り、自嘲気味に笑った
「もしかしたら、そうだったのかもしれない」
「曖昧だな」
「俺は知らないが、お前は知っているんだろうな」
フェンは溜息をついた。変わらないな、という気持ちが含まれているように感じた。そして、俺のフードの中を覗き込んだ。見えもしない、透明人間を。
そして、言い訳じみた言葉を並べ立てる。
「正直、僕もこの組から離れたいとは思っているさ。だけど、籍を置いていないと生きていけない――君のように、一人で生きていくことができないんだよ」
「分かってる。分かってるさ」俺は手のひらをひらひらと振った。「別に、お前が悪いとは思ってねぇし、その生き方が悪いとも思ってねぇ」フェンは安心したように言った。「そうか」
「……この件に関しては、直接言っておくよ。どちらにせよ、一回ザノに会いに行く」
「……できればもう二度と、会いたくねぇよ」
「だろう、な」
フェンは思い出したかのように少し顔を振った。近くにいるため水滴が俺の方にも飛んでくるが、あまり気にしない。
「ハオ君」
フェンが初めてハオを呼んだ。呼ばれた本人は少し怪訝そうに、フェンを見た。
「ユウヤを、よろしく頼むよ」
ハオの頭に疑問符が浮かぶのを感じた。
「ユウヤはこういう奴だからさ、仲良くしてやれよ」
「おい、フェン」
フェンが俺の方に振り返った。
「ユウヤ」
その口調は真剣そのものであった。
「ユウヤ、烏合の衆は死ぬほど弱いし、脆弱だ。でも、蟻になると途端に強い。分かってるよな」
「……ああ、群衆は非力だ。かと言って、一人が強いわけでもない」
「分かってるなら、いいんだ。君がそれで良いなら、それでいいんだ」
「何だよ、それ」
「そういうことだよ」
「分からねェよ」
そして、俺の返答を聞くこともなく、フェンは早々と立ち上がり、出て行った。雨など気にしない、といった堂々とした立ち振る舞いで、左の袖をはためかせながら。
段々と遠ざかって行くフェンの後ろ姿は、神さえも見下したような振る舞いに見えた。――神を見下しているのは、どっちなんだか。
ハオがフェンの後ろ姿が見えなくなるのを確認してから、鞄を持った。
「一回ホテルに戻って、荷物持ってきます」
「あっさりしてやがる」
軽口とともに、一人で行けるか、と尋ねた。
「大丈夫です、多分」
「死ぬのは怖くねェのか」
「怖いですよ」
でも、と彼は震える声で言った。
「どこかで割り切らないと」
「なるほどな、もっともだ。気をつけろよ」
ハオは一つ頷いて、建物を出て行った。
再度、雨の音が建物内を占める。
俺は外を見ながら、フェンの言葉を思い出していた。そして誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
「何だよ、それ」
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