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小劇場の客席最前列に、トーアは座っていた。フェンは彼の隣に座り、舞台で踊る女性たちをぼうっと見つめている。
トーアは午後の五時頃から深夜までは劇場にいると決まっている。何故いつもこの時間にいるのか、という疑問には、いつもはぐらかされていた。
確かに取引場所が最初から指定されているのはありがたいが、それにしたって何でドゥーショ直属の劇場で、一体何が目的なのだろうか。色々な憶測がされているが、本人が口を開かない以上、真相は誰にも分からない。
「……珍しいじゃないか、フェン」
先に口を開いたのはトーアだった。フェンは心ここにあらずと言った風で、舞台を眺めていた。
「興味があるのか?」
「いえ……、ただ、昔を思い出していただけです」
「何を、かね」
「そこまでは、教えられません」
フェンはトーアに向き直った。そして、懐からジッポーを取り出し、トーアに突き出した。トーアはその意図が読めないのか、少し怪訝な表情をするだけである。
「……私は煙草なぞ、とうにやめたよ」
トーアは自分の懐に手を突っ込み、何もないことを示した。
「いえ、受け取ってください」
フェンの強情な態度に、トーアは渋々ながらジッポーを受け取り、軽く振った。そしてすぐに納得したような雰囲気で、何がしたいんだい、と尋ねる。
「ハオの監視を、やめていただきたい」
トーアの眉が僅かに動いた。
「それはまた、何故」
「ハオのことはユウヤに、任せてほしい」
「ほう」
理由が知りたい、と言った風な表情である。トーアは上からの命令と、金のために動く人間だ。そこに人情だとか、使命だとか、脅迫によるリスクといったものを介在させない――それは単に、恐れるものがないからだろうか。それとも、他人に無関心のためだろうか。
既に、人生を諦めているためだろうか。
しかし、フェンは知っていた。トーアが唯一、仕事をしづらくなる条件を。
「透明人間なんて話題を、ユウヤが外に漏らしたいと思いますか」
フェンは少し語気を強めていた。しかしトーアもそれに負けてはいなかった。それはフェンを試しているようである。
「それは、私の知ったところではない」
「鴻業城に人が来れば、貴方だって動きにくくなるはずです」
「代わりに本業は儲かる」
「掃除屋の方が儲かるのに?」
「副業はどうにも性に合ってないんだ」
「御冗談を」
トーアがジッポーをフェンに返そうとする。依頼は承諾できない、だから受け取らない、と言うが、フェンは首を横に振った。
「これは最低限、話を聞いてもらった分の代金です」
「口止めされても、私は記者を監視し続けるぞ」
「やってみてください。長期的に見れば、彼はユウヤに任せておくのがいいと思うはずです」
「ドゥーショからの命令だ、背くわけにはいかない」
御冗談を、と再度フェンは言った。続けて軽く嘲笑する。右手を額にあて、さぞ面白いと言った風で――ゆっくりと、指の隙間からトーアを睨め付けた。
「シドに、弟分を殺されるとあってもですか」
トーアは黙りこんでしまった。代わりに、舞台に目を移し、上目遣いで媚びを売る男女を見やった。既に数人ほど売られたのか、役者の数は疎らである。だが、明日になれば減った人数分が新しく補充されているのだろう。予定の二週間が経っても売れ残ったままの者たちがどういう処理を受けるのか、などとは考えたくもない。願わくば、そのような現場に居合わせたくもない。
悔しいことに、そう思っているフェンも、犯罪の担い手であるのだ。
やがてトーアは、重たい口をゆっくりと開いた。
「……私に、どうしろと言うのだ」
「さっきも言ったじゃないですか。ハオの監視をやめてくれ、と」
トーアは顎に手を当て、少し考えるそぶりをした。それから大きく息をついて、乱暴にジッポーを懐にしまう。手を膝に上で組んで、背もたれに深く腰掛けた。
「分かった、彼のことは諦めよう。ただし、体裁があるからな、明星街は適当に歩かせてもらう」
「構いません」
「シドには持病が悪化して追跡ができなくなったとでも言っておこう。彼は最初から駄目元と言っていたんだが、こういうことだったのかもしれん」
「シドに、予知能力があると?」
「そういう体質も、あるやもしれん」
トーアなりの冗談なのか、言ってから彼は鼻から息を漏らした。フェンは表情を動かすことなく、右手を懐に入れた。
「交渉、成立ですね」
ずるりと腕を引き抜くと、札束が握られていた。それをトーアは制止し、首を振った。
「金が欲しいから裏切ったわけじゃない」
「……そうですか」
「その辺に募金でもしてやるといい。それが一番の社会貢献だ」
「皮肉なことを」
言って、フェンは立ち上がった。劇場を出ようと通路を歩いていく。途中で、トーアが呼び止め、何だ、と彼は振り返った。
「フェンよ、好奇心から訊くが、お前、一体ユウヤとどんな繋がりなんだ。弟分なのは知っているが、彼とは並々ならぬ関係を感じる」
「知りたいんですか」
「あくまで、好奇心だ」
フェンは微笑んで、それから左腕の断端を右手で押さえた。
「……家族、とも言えるのかな」
「何だそれは。昔の仲、ってことでいいのか」
「間違ってはいないです。けれど、今はただの腐れ縁ですね」
「そんな関係、鴻業城で続くとは思えないが」
「案外そうでも、ないんですよ」
変なやつだ、とトーアは言うだけである。フェンはそれ以上口を開くこともなく劇場を出て行った。トーアはじっと、舞台を見つめていた。
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