【透徹した身体と不揃いの倫理】

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* * *  地下に足を踏み入れてすぐ、フェンは形容しがたい気味の悪さを感じていた。サーフェスウェブに対してダークウェブがあると聞くが――実際、ドゥーショにはそれを拠点に物品売買している者もいるが、それと同じだと思った。  オネがドゥーショに加入する前は、このような空気はなかった。彼女が来てから、裏カジノの利益は数倍に跳ね上がったとも聞いている。それだけ、彼女の腕が優れているということだろうか。フェンは一抹の後悔を抱えながら、扉を開けた。  暗闇が延々と続いている。フェン自身、ここに足を踏み入れるのは二回目であったが、今回は多少の覚悟が必要になると予感していた。裏カジノ、正確には明星街の地下は、ほとんどがオネの管理下である。だからザノはオネを監視役に使ったのだろう――フェンはしばらくそこから動くことができなかったが、意を決して、彼は階段を降りていった。  灯りがあるわけでもなく、ほぼほぼ暗闇に包まれたその通路には、時折叫び声のような、あるいは怒号のようなものが反響してきた。気分が良くない。フェンは既に遠くに見える入り口の扉を振り返る。  ドゥーショ以外の人間からすれば、これは地獄への通路に見えるのだろうか。この時だけは、フェンもドゥーショの一員で良かったと密かに胸を撫で下ろした。  やがて、無骨な扉が見えてきた。裏カジノ場の入り口である――スロットのBGMが微かに聞こえた。フェンはノックしかけ、しばらく逡巡して、結局どうせ聞こえないだろうとそのまま扉を開いた。  熱気が渦巻いている。何か得体の知れない、嫉悪のような。  見渡した限りでは、オネの姿は見当たらない。結局、彼は不承不承近くにいたオネの部下と思われる人に声をかけた。 「オネ幹部はいますか」  男は少し眉をひそめて、それから誰だと問うてきた。 「フェン――ユウヤの連れだと伝えてくれれば、いい」  男はなおも不審な目をこちらに向けてくる。幹部同士ならともかく、それぞれの部下たちはあまり上層部の顔ぶれを知らない。別に珍しいことでもない。フェンはそう思いながらも、カジノの雰囲気に腹の底が痙攣していた。  男が何やら、違う部下に伝言させた。そのままお待ちくださいと丁寧に言われ、その通りにする。再度カジノの全貌を見渡して、彼は息を吐いた。部屋としてはあまり広くないが、所々に別の通路への扉がある。他の賭博場に続いているのだろうか、そちらの方からも絶え間なく叫び声が聞こえていた。  やがて、先ほどに会いに行った部下がどこからから現れ、フェンに恭しくお辞儀した。 「失礼しました。オネ幹部がお待ちです」  フェンは彼の促した先の階段を上がる。聞くところによれば、オネがどこの賭博場にいるのかは日によってまちまち、らしい。――トーアを見習ってほしいものだ、とフェンは心の中で呟いた。しかし規模が広くなっただけで「裏カジノ」という場所に限定されているため、まだ良いのかもしれない。  新たに現れた扉を開けると、緑の卓上が目に入ってきた。奥の方にも何台か見える。バカラ、スーパーファンタン、レッドドッグ――スーパーファンタンの台はひときわ多くのチップが飛び交っている。  フェンは台を遠巻きに眺めながら、楽しそうにその様子を見やるオネに近づいた。彼は一応と言った風にお辞儀する。 「別に、そういうのいいんだけれど」 「オネ幹部の方が、立場は上でしょう」 「せっかく若い男が来てくれたんだから、楽しく話したいじゃない?」  そう言って、彼女はけたけたと笑った。フェンはあまり気にするようでもなく、極めて落ち着いた表情で口を開いた。 「リーダーの命令なら、聞くんですって?」  オネの目がこちらを向いた。 「僕のお願いは、聞いてもらえますか」  言うと、彼女は再度愉快そうに笑った。手首につけたアクセサリィが金属音を鳴らす。フェンはそれ以上は何も言わず、様子見だと言わんばかりに彼女を見据えていた。  しばらくして落ち着いたのか、乱れた前髪の隙間から、ゆらりと彼女の双眸はフェンを射抜いた。 「――それで何か、用かしら?」  これだ――。地下に入った時に感じた気味の悪さとは、この眼前の女から感じるものと同じだ。フェンは背中が灼けつくように熱くなるのを感じた。汗が滲んでくる。なるべく表情に出さないように、冷静を装いながら、フェンは口を開いた。 「記者の監視を、命じられているんですよね」 「あくまでもシド越しに、だけど」 「リーダーは、記者の抹殺は避けるようにと言っていました」  これはリーダーからの伝言です――フェンはそう前置きした。 「それは分かってるわ。その、貴方の『お願い』っていうのを教えなさいよ」  フェンは一つ二つ、浅く呼吸を繰り返した。 「記者はユウヤに任せてやってほしい」  背後から、鉄の擦れる音が聞こえた。振り返らないまま背後に視線を移すと、取り巻きの銃口が、こちらを向いていた。やっぱりか――フェンは右手を挙げ、映画よろしく何も持っていないことを示す。オネが銃を構えた部下に手を振ると、彼は素直に銃を下ろした。 「面白いこと言うわね――死に急いでるの?」 「明星街で人が死ぬなんて、珍しくもないです」 「肝が据わっているのね」 「元より死んでいるような人間です」  ――むしろ、即死できるだけ幸せ者だ。フェンは心の中でそう嘯いた。オネは先ほどと同じように、豪快に笑った。 「つくづく、面白いわ」  しばらくそれは続いたが、その眼光は弱まっているようには見えなかった。 「そこまでして、あの透明君に味方するのはどうしてかしら?」 「分からない」  それまでの愉快そうな表情が一変、怪訝そうな――さながら異物を見るような表情になった。フェンは少し俯いて、小さく溜め息をついた。 「単純に、全部をユウヤに任せたいだけです」 「中々、無責任ね」 「記者を見つけたら、シドに報告するように言われているらしいじゃないですか」  オネは無言で首肯した。 「シドは、ユウヤを探しています」 「でしょうね」 「記者は、ユウヤと行動を共にしています」 「聞いているわ」  未練がましい――気持ちの悪い影が街を闊歩している。ユウヤの身になって考えてみると、改めて気分の良くない話だとフェンは思った。 「これ以上、彼の古傷を逆なでする必要はないでしょう」  フェンがそう言い切ると、オネは腕を組んで、何か考えるような仕草を始めた。少し唸って、ちら、とフェンを見る。部下たちは依然として動かなったが、フェンは彼らが銃を抜くだろうかとそちらに神経を張っていた。  やがてオネは一つ頷いて、しかし気乗りしない様子で口を開いた。 「まあ、いいわ。私も、シドに好き勝手されたくないし」 「ありがとうございます」  それにしても、とオネは言った。 「貴方も、裏切っておいてよく案山子とかにされないわね」 「最低限の仕事は、一応してますので」 「律儀ねえ」 「ユウヤへの干渉も、ある意味仕事です」  それなら仕方がない――。彼女はそう呟いた。 「ないと思いますが、もし記者を見かけたら連絡してください」 「何か、企んでいるのかしら?」 「いいえ、これはドゥーショとしての仕事です」 「記者の抹殺かしら」 「『鴻業城の情報漏洩を防ぐ』命令には従いますが、あくまで僕なりのやり方で――です」 「必死――いいや、私は貴方が滑稽に見えるわ」 「分かってます」  「ドゥーショにいるから」と「ユウヤの味方をする」は矛盾しない。フェンはそう呟いた。――ドゥーショの欲しいものがたまたま手に入らない位置にある。ただそれだけの、子どもにさえよくある話だ。 「話はそれだけかしら」 「ええ、ありがとうございました」  フェンは軽くお辞儀して、オネが引き止める間もなく、足早に来た道を帰っていく。降ってきた階段に戻り、彼は大きく息を吐いた。 **********
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