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【桎梏と相対せし氷雨の中】
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そろそろ腹の虫も限界だ、という頃に日が沈む。元来、数日間水だけで生活した身としては、たった一日で空腹になるなど贅沢だ、と自嘲せざるを得ない。
――また、ノックする音。フェンが戻ってきたのか、と思ったが、すぐにフェンではないと気づく。俺は透明化し、立ち上がった。シドか、トーアか――誰だ、と入口の方を睨む。が、顔を出したのはハオであった。手には大きなボストンバッグが下がっている。なんだ、と俺は一気に虚脱する。驚かすなよ、とも。しかし、いきなり現れた俺に、ハオは軽く腰を抜かしたようであった。
「ゆ、ユウヤさん……びっくりした……」
「いや、それは悪いな」
とりあえずこっち来い、と俺はハオを呼び寄せる。ハオはおずおずとした雰囲気で、俺の正面に座った。俺は細く息を吐いて、軽く語気を強めて言った。
「色々訂正したいことはあるが――まず、透明人間としてのことは報道しない。この前提がまだ守る気があるなら、これは『個人的に教えること』として、話してやってもいい」
俺の体質自体、これから一緒に行動する上でハオは知っておく必要があると思っていた。
「……約束したんですから、しませんよ」
ハオは、俺から目線を逸らして言った。それは嘘をついたわけではなく、先日の俺の脅しの効果であるのだろう、と容易に想像ができた。あるいは、ドゥーショへの恐れだろうか。
命も狙われたくないですし、と小さな声で付け足した。
「見ての通り、俺自身は透明だ」
右手をかざすと、ハオは小さく頷いた。
「俺が力を込めた箇所に触れているものは、俺と同じように透明になる」右手に力を込めると、手袋は一瞬にして姿を消した。その手でハオの身体を軽く押してみる。ハオはバランスを崩して、後ろに少し仰け反った。
「まァ、こんなところか」右手の透明化を解除する。便利な能力ではあるが、この力は万能ではない。これに頼ってばかりでは早死にしてしまう、と自覚していた。
「暁闇街には俺の他にも何かしらの体質を持ったヤツが何人か住んでる。中には病質とか、呼ぶやつもいる」
明星街で体質を持つ者がいた場合、その大半はドゥーショに「保護」という名目で回収され、見世物小屋に持っていかれるか、売られるか――考えたくないが、解体ということもある。そうなれば必然的に、体質者は暁闇街に住むようになる。
「た、例えば、どんなのが」
「残念ながら、そこまでは言えねぇ。思い出したくもねぇ過去ばっか背負ったヤツらの人生までは、無責任に教えられない」
「そう、ですか……」
「それに、体質者ってのは基本的に何かを失っている。俺も例外じゃねえけど、そこに触れると何をされるか分かったものじゃねえ」
「なるほど……。いや、そう、ですよね」
意外にもハオは大人しく食い下がった。約束は守る、と言ったさっきの言葉は、多少信用してもいいのかもしれない。
「それで、お前には少し教えないといけないことがあるが――その前に、お前いつ帰る予定なんだ?」
「え、えっと……」ハオはポケットから小さなスケジュール帳を取り出し、ペラペラとめくった。「あと四日、ですかね……」
「オーケー。これから話すことは、絶対に記事にしないことをオススメする」
「ど、どうしてですか」
「俺が意識して話すのを避けてた話題なんだが、とにかく秘密裏にしとくに越したことはない」俺はハオのノートを一瞥してから、念押しのように続ける。「命が惜しければな」
ハオは開いたノートを閉じて、ペンを置いた。記録に残さないという意思の表れだろう。
「組織ってのはまだしっかり話してねぇよな」
「え、ええ」
フェンさんと話している時にも何か言ってましたけど――ハオはそう続けた。無闇に詮索しなかったのは賢明な判断である。フェンに盗聴器などつけられている可能性が絶対にないとまでは言い切れないし、それにどこまで行っても彼はドゥーショのメンバーである。情報を渡すという意味では、手を組むことはなるべく避けたい。
彼もそれを承知している。だから、ほとんど一方的にこちらに内情をリークしてくれる。ザノの予定通り、というのが気に食わないところではあるが。
「鴻業城の中心、俺が『廃材塔』って呼んだ建物があっただろ」
見たよな、と尋ねる。ホテルに帰る途中でも見ました、とハオは返す。結構危ないところ歩いてんじゃねえよ、と思わず心の中で突っ込んでしまう。
「アレが、鴻業城を裏で統治してる組織の本部だ」
「組織……」
恐らく、マフィアだとかヤクザのようなものを想像しているのだろう。当たらずとも遠からず、というところである。
「リェン=ドゥーショっつってな。俺も昔所属していたが、すげぇでけぇ組織でよ」
「鎖……。毒、蛇……?」
「ああ、三合会だとかメデジンよりもおっかねえ、恐らくこの世で最も敵に回したくない化物の名だ」
ハオが身震いしたのが分かった。
「この街の違法行為は大体見てきたよな」
「え、ええ」
「あれは全部ドゥーショ管轄下にある。劇場の経営、カジノの運営、外部組織との取引もそうだ」
「それだけ、大きい組織ってことですか」
「そりゃ、明星街全域を支配しているわけだからな。とりあえずまだ監視っていうだけだし、あまり警戒しなくてもいいかもしれないが、一応用心はしとけ」
「よ、用心って……」
「次からは俺も一緒に動く。危なくなったら教えるさ」
ハオは自分の理解の範疇を越した話題に頭が回っていないらしく、はい、と短く返事をしただけであった。
「大丈夫だって、多分あっちはお前の握ってるネタがどこまでなのか知りたいだけだ」
俺は慣れないながらも、できる限りハオを安心させるように励ました。――その本心は、彼が自暴自棄になって全ての話を報道するという事態を避けさせるという意図もあったが。
ふと外を見ると、少し雨が和らいでいるようである。外に出るには丁度いい頃だろう。
「街に出ようぜ。俺も、ドゥーショにゃァあまりいい気はしてねぇし、いざという時は返り討ちにしてやる」
「でも……」
「アイツらも、未遂で殺す、なんてことはしねぇよ。それに、フェンもトーアくらいはなんとかしているはずだ」
これは事実であった。そういう意味では、ドゥーショはまだ他の組織と比べて良心的なのかもしれない。あそこは元々、白黒がはっきりした結果だけを追い求める組織であった。
それに、と俺は付け加えた。
「俺を狙ってるヤツもいる。ソイツと鉢合わせしないように努めねえと」
「……どんな、人なんですか」
俺は少し笑って、これは心の底から親切心で言うことができた。
「知らねえ方が、後戻りできる」
それから、街に出るか、と尋ねた。
ハオはあまり浮かない顔ではあったが、結局行きます、と頷いた。
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