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「今日は、少し草稿がしたいので」
「あァ、別にいいけど……。飯はどうする?」
「ユウヤさんに従いますよ」
「となると飯抜きだぞ」
構いませんよ、と彼は言って、ボストンバッグから違うノートを引っ張り出していた。どうやら俺との取材でメモをしたものとは違うらしい。
運んできた瓶の一つを開けて、手頃なコップに注ぐ。琥珀色の炭酸がパチパチと弾けた。見た目はアルコール飲料だが、残念ながらただの甘味飲料である。それを一息に飲み干し、喉を潤す。その様子をハオはじっと横目で見つめていた。
「あの、ユウヤさんはアルコールとか飲まないんですか?」
「嫌いじゃねえんだけどな。用心に越したことはねぇって思って、飲まなくなった」
「なるほど」
「あと加減を知らねえから、二日酔いしちまう」
もう一杯注いで、瓶の先をハオに向けた。「いえ、大丈夫です」妥当な反応だ。それを責めるわけでもなく、コップを傾ける。雨は小降りになっている――読めない天候だ。明星街ならばテレビも観られるが、それをするにはリスクが高すぎる。
壁を叩く音がした。フェンか、と思ってのそりとそちらを振り返った。ハオもそう思ってか、特に気にする様子もなく黙々とペンを動かしている。俺はそちらの方を見て――直後、全身を透明化した。
ノック音は、二回だった。
ハオも異変に気づき、近場にあった瓦礫を掴んで、壁の方を見やる。武器にしては心許ないことこの上なかったが、悪くはないと思った。
ゆらりと姿を現した少年は、満面の笑みを浮かべていた。フェンとは違ってボロボロの傘を持っていた。
ハオがそれにつられて、強張った笑いをした瞬間、何かがハオに向かって投げられた。俺は近場にあった瓦礫をそれに投げつけ、空中で撃墜する。
「……ゾラか」
ゾラは少し驚いて、しかしすぐに何が起きたのか理解したらしく、不服そうに漏らした。
「なんだよ、ユウヤいたのかよォ」
俺はもう一度瓦礫を掴み、彼に投げつけた。それはすんでのところで粉々になる。その間にゾラの懐に足を踏み入れ、身を縮めてタックルをかます。体勢を崩したところで胸元を掴み、地面に思いっきり彼を叩きつける。骨が砕ける感覚。「……ッユウヤァ! なんでそんなやつの味方するんだよ!」「まだ元気だな」続けて二度、三度と繰り返してから、彼の上に跨った。
透明化を解き、フードを脱ぎ捨てる。ハオが何をしているのだと言わんばかりに近寄ってきた。――ゾラは右手をハオに向け、鋭利に尖ったものを伸ばす。それを左手で掴んで、力任せにへし折った。
「……ゾラ、落ち着け。話し合おうぜ」
言ってから、手に持っているものをハオに投げ渡した。彼はそれを受け取り、しげしげと観察し、そして小さな悲鳴とともに地面に落とした。
「ゆ、ユウヤさん、これって」
「あァ、コイツの骨だ」
「これも体質……ですか」
俺は一つ頷いた。体質が何であるかまでは話すつもりはなかった。ハオもそれを承知しているのか、それ以上詮索してくることはなかった。
「それで、お前何しにきたんだよ」
ゾラは少しばつの悪そうな顔をして、降参だと言わんばかりに手をあげた。俺が彼から退くと、ハオが俺を睨んで無言の抗議をしてくるが、俺はそれに気づかないふりをした。
「何の用だよ、一人で来るなんて珍しい」
「そこの記者」
一言、短く言った。それから彼はハオを指差した。
「その記者のせいで、俺たちの肩身が狭くなった」
「何のことだよ」
「おちおち明星街を歩けない」
「おいおい、ドゥーショはハオと俺だけを警戒しているんだぜ? フェンのリークが間違ってたのか?」
俺が半分おどけてそう言うと、ゾラは違うと言いたげに首を振った。
「シドがユウヤを探して、明星街を歩いてる」
「おいおい、シドはザノに動くなって言われてるはずだろ」
言いつつも、このことはある程度予想していたことである。シドは俺を引き戻そうとしている。しかし俺はハオと行動を共にしている。ハオに干渉することは避けるようにとザノから言われている。ならばハオではなく俺の方を直接探せば命令違反にならない。
揚げ足取るようなことしやがって――。
「お前、早く出てけよ」
小声ではあるが、ゾラはそう漏らした。ハオの気持ちを汲むのならばここで彼を一発殴るべきだったのだろうが、ゾラの気持ちを汲むのならば、ハオを追い出すのが正しい選択である。
結局俺は、どっちもできなかった。
代わりに、俺はゾラの頭を軽く叩いた。煽りの一つでも投げかけてやりたいところだったが、またゾラと一戦することになってしまうのでやめておいた。
「分かった、ともかくシドをどうにかすりゃいいんだろ」
そこでハオが反応した。フェンと俺の話していた内容を思い出してか、焦り気味に口走った。
「シドって、ユウヤさん言ってたじゃないですか。もう会いたくねえって」
「あァ、そうだな」
「まさか、戦うんですか」
「そうなるかもしれねえ。だけどそんなもん、できれば御免被る」
だから、と俺はハオを指差した。一体どうするのだ、と彼は疑問符を浮かべる。俺は顔が見えないのをいいことに、意地悪く口角をつりあげた。
「お前を、早いところ本国に返す」
え、とハオは短く言った。ゾラは一瞬遅れてその言葉を理解し、そして俺の方を嬉々とした目で見た。ただし、と俺は続けて、今度はゾラを指差す。
「ゾラ。てめぇは後ろからついてこい。近くにシドを見つけたら、すぐに教えろ」
「なんで俺が」
「言い出しっぺはお前だ」
「俺じゃない」
「じゃあ、ハオを殺そうとしたのはお前だ」
「それは……」少し言い淀み、結局渋々ながら肯定した。「……そうなんだけど」
俺はハオに言って荷造りをさせる。ゾラは一度戻りたいと言ったので建物を出て行った。
「ゾラって子……このまま逃げたり、する気なんじゃないですか」
「さぁ、少なくとも町長に報告はせにゃならんのだろ」
「町長」
「いや、そんな高尚なものじゃねえな。ただ死に遅れたジジイだよ」
一応個人的な恩があると言えばあるのだが、正直彼の呼び方は昔から「ジジイ」だった。特にこれから変える気はないし、この呼び方で良いと本人は言っていた。
「それよりも、もう取材とかいいか?」
草稿がしたかったということは、現時点でほとんど記事が書ける段階にあるということだろうかと俺は予想していた。少なくとも、書けるだけのネタはあるはずだ、と。
「まあ……書けないことはないかな、と」
「ならいいか。ゾラが帰ってくる前に、訊いておきたいこと、早く言っておいてくれ」
「と言われましても」
ハオは取材用のノートを広げ、目を走らせていた。なんと書いたのかは知らないが、今更透明人間だの体質だの書くはずはないだろう。
「……大丈夫だと、思います」
「ならいいんだが」
ドゥーショのことはあまり書かない方がいいぞ、と改めて言っておく。
壁が二回、叩かれた。反射的にそちらを見やり、ゾラの姿を確認する。
「早かったな」
「あの革命集団、まだ居座ってんだ」
「その割にはハオの方が厄介者扱いじゃねえか」
「体質者よりも堅気の方が邪魔だ」
ゾラはハオの方を横目で見た。ハオはなんとなくそれを察してか、居心地の悪そうに目を背けた。
「やめろよ、ハオは悪くねえ」
中途半端なフォローをいれてから、未だにこんな大層な台詞が吐けるのだなと自嘲した。
「……ユウヤ、なんか変わったな」
ゾラが呟いた。俺は聞こえないふりをしたが、他人から改めて言われるといよいよもって俺も毒されてきているのだと自覚させられる。
今更「普通」に戻ったところで、鴻業城から――ドゥーショから、あるいは体質からは逃げられないというのに。
「……俺は、何も変われねえよ」
ゾラもハオも、何も言わなかった。
ここへきて、唐突にハオが羨ましくなってしまった。同時に、何か得体の知れない安心のようなものを心の奥底で感じていた。どうにも平和ボケしてしまいそうである。鴻業城で油断するのは確定した死の前だけで充分だ。甘ったるい戯言を飲み込んで、俺は外を見やった。
日は沈み、夜も刻々と更けてくる時間である。雨もぽつぽつと降っている――傘をさして大通りに出れば、シドの追跡を振り切れる可能性は高くなるだろう。
「悪くねえな」
ハオがボストンバッグと鞄を下げて、行けますと俺に言った。ゾラはぶつぶつと恨み言じみた台詞を繰り返している。しかし結局戻ってきたのだから、何かしら彼なりの心の変化があったのだろう。そうでなくとも、彼自身もシドに出くわすのは避けたいはずだ。利害の一致でしかない関係も、結局は強固な結束だ。
「もしシドを見つけたら教えてくれ」
「ああ、分かってるよ」
「一旦ハオはホテルに戻って、そっからは来た時の逆のルートを辿ってくれ」
「分かりました」
「何か言い残すことは?」
ハオは首を横に振った。ゾラは少し考えてから、頭をがりがりと掻き毟った。
「シド、会いたくねぇ……」
俺は苦笑する。
「精々祈ってようぜ。俺も会いたくねえからよ」
神にも見放された街で今更こんなことを言うのも、いささか間違いなような気もするが、ないよりはマシだと己に言い聞かせた。
「ハオ、もしシドと出会ったら、お前は逃げろ。ゾラも一緒に」
「で、でも」
「どうせお前のことなんて眼中にねえよ。俺が逃げている間にお前はどうにかして帰れ。いいな?」
そう強く念を押すと、ハオは渋々ながらに頷いた。味方を見捨てられないのは良識のある人間だけである――それでいい、と心の中で言った。
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