【桎梏と相対せし氷雨の中】

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* * * 「……あ、あれ」  ハオが立ち止まり、傘の間から路地裏を覗いた。 「どうかしたのか」  屋上にいるゾラを見上げて、シドではないことを確認する。つまらないことで立ち止まるなよ、とハオに投げかける。 「いや、大したことじゃないんですが」 「なんだよ」 「ユウヤさんが倒した人たちだって思って」  言われて、俺もハオと同じように視線を這わせる。先日と同じように路地の奥の方で男三人が、この前とは違い、若い男女を取り巻いて何か言っている。 「何、言っているんでしょうか」 「さァな」  そう言ったが、この街で生きていれば大体の見当はつく。「早く行くぞ」ハオを急かし、再び歩き始める。ハオは名残惜しそうに――何が起こるのだろうかと言った風に見ていたが、やがて小さな悲鳴を一つあげて、俺の後をついてきた。 「見ない方が良かっただろ」 「……後悔しました」 「そこの路地、通って行くぞ」  ビルを仰いで、ゾラに合図を出す。ゾラは一つ頷いて、ビルの上を飛び回り、路地の先の方に駆けていった。ハオはそれを見ながら、ぼんやりと呟いた。 「……あれ、危なくないんですか」  質問というよりも、ただの疑問をこぼしただけのようだったが、律儀に俺は答えていた。 「まァ、普通の奴がやれば危ないな。本国に帰っても、絶対やるなよ」 「流石にあんなの、やりませんって」  初めてハオを出会った路地とは違う路地。道幅が広く、遮蔽物になるようなものもないために、雨は地上まで届いている。仕方ない、と傘をさしたまま足を踏み入れる。 「どこに、向かっているんですか?」  中心部のホテルの方から微妙に遠のいていると気づいたのだろう。彼はそう尋ねた。 「とにかく、まずは危険じゃない場所だ」  もっとも、鴻業城に危険ではない地域などあるはずがないのだが――。 「ユウヤァ!」  ゾラの声。――直後、悪寒を感じ、ハオに短く言い放つ。「――ハオ、逃げろ」「え?」異常が起きているのは分かるが、状況が飲み込めない、と言った風である。「早く!」俺はハオの背中を強く押した。なおも硬直し続けるハオにしびれを切らし、もう一度叫ぶ。「早く!」  そこで状況を察したのか、ハオは脇目も振らずに裏路地を奥の方に走って行く。結果的にどこに辿り着くのかは分からないが、今はこれが最善であると思った。俺は屋上の向かって、あらかじめ持っておいたゾラの骨の一部を投げた。ハオについていけという合図である。そして雨とビルの隙間に消えて行く彼の背中を見届けてから、全身に力を込める。一度周りを見て、目を閉じた。  人の往来。雑踏に搔き消える喧騒。遠くに見える怪物は廃材塔をまきこんでいる。胸騒ぎがする。落ち着かない――鴉が一声、鳴くのが聞こえた。  ――息遣いが、間近に聞こえた。  咄嗟に俺は傘を放り投げて、隣の建物を這っているパイプを掴み、三メートルほど壁を上る。俺の手を離れた傘は実体を現し、重力に従って地面に落ちた――いつからそこにいたのだろうか――、傘で塞がれた視界が明けると、路地の入り口付近に立つ、相手の姿が露わになった。  雨だというのに煙草をふかし、乱雑に伸ばした髪の隙間から青い瞳が覗く。下品に口角を歪め、そして見えないはずの俺をしっかりと見据えて――。 「……シド」 「久しぶりだなァ、ユウヤ」  俺は更にパイプを掴み、逃げるように壁を駆け上がる。お前とはもう会いたくねぇんだよ、と態度で示そうとした。しかし、全身を透明化しているためにその態度は伝わらない。代わりに、雨のせいで透明化していても俺の位置だけはシドに筒抜けである。  ――だから雨は嫌いなんだ。 「おい、逃げんなよ、俺ァ話をしにきただけだ」  俺は右手の透明化だけを解除し、シドに向かって中指を立てる。話すことなんざねぇ、と。ともかく、シドの目的が俺なのは分かっている。逃げるか、あるいは戦うか――判断が下せない。 「そう言うなよ、堅いな」  俺は溜め息まじりに口を開いた。 「……今、俺は一番会いたくねぇ奴とエンカウントしてる」 「あァ? 誰だよそいつ。迷惑な野郎だなァ」  言って、シドもパイプを掴む。 「まァ、俺は心の底から会いたかった奴だがな」  俺は舌打ちをしてから、更に上へと手をかける。しかし、建物の高さは無限ではない。四階分ほど登ると屋上に出た。振り返ってみれば、シドは三階半辺りを登っているところである。パイプを切断するかとも思ったが、刃物を持っていないため諦めた。素手で壊すのも時間的に厳しいだろう。  雨が降っている以上、どれだけ俺が透明化しても意味がない。ならば体力の消耗を抑えようと服装の透明化を解く。それと同時に、屋上の縁にシドの手がかかった。 「逃げるなよ、ユウヤ」 「……何の用だ」  数歩後退しながら問いかける。 「さァて、何だと思う」  既に四十代後半になろうかとしている男は、特に息を切らしている様子もない。もしかしたら歳相応に体力が落ちているのではないかとも期待していたが、元より彼はドゥーショの実戦派幹部である。冷静に考えてみればまったくもってあり得ない話だった。 「フェンから聞いてんじゃねェのか?」 「……勧誘なら、蹴った」  言って、フェンはどうした、と続ける。 「あァ、それなら安心していいぜ。俺の独断で動いているだけだからよォ」 「ザノの命令には違反しているんじゃないのか」 「残念ながら、違反じゃないんだよなァ」そもそも俺に仕事を渡さねえとは嫌な奴だよなァ、とシドはわざとらしく溜め息をついた。  この場合、一層シドの思惑が読めなくなってくる。読めないし――何をしでかすのかも分からない。あり得ないと分かっていながらも、自爆する可能性だってないとは言い切れない。彼は俺を勧誘するのに失敗して、素直に引き下がるような人間ではない。  シドにとって戦闘行為は日常茶飯事だろうし、人を傷つけるのにも躊躇いがない――精神的にも、肉体的にも。むしろ、そちらの方が専門であるだろう。  シドという男はそういう、厄介という概念を凝縮したような人間だ。 「……何しに、来た」 「言っただろ、話し合いに来たんだよ、話し合いに」 「よくもまぁ、言えたもんだ」辛辣に吐き捨てる。「……狙いは、俺なんだな?」 「ん? あァ、記者か。別に、アイツにゃ興味ねぇよ。どうでもいい」 「暁闇街から、苦情が来た」 「そりゃ、あっちから喧嘩売ってきたんだ。怪我させちまっても、ンなもんは正当防衛の一環だろォ?」言って、シドは口角を歪めた。「本当だぜ?」こういうところだ、と俺は言いたくなる。胡散臭い物言い、一転二転する言動と主張。有り体に言って、気持ちが悪い。 「トーアとオネに、ハオの抹殺を指示しただろう。あれはどうなったんだ」  言うと、シドは心当たりがないといった雰囲気で頭を掻いた。それから短くなった煙草を吸い尽くして、それから天を仰いだ。 「……あァ、多分トーアはフェンに諭されてンだろォなァ」  言って、彼は頭をがしがしと掻き毟った。 「まァ、元からそうなると思ってたぜ」  フェンはトーアくらいならどうにかなると言っていたか。ある種、フェンの動向はシドの思惑通りだったのだろうか。だとすれば気にくわない話である。シドを観察しても、嘘のようにも本当のようにも見えた。 「……どこまでが本当だ」 「それを相手に聞いちゃァ駄目だろうがよォ」  吸い殻をこちらに弾き飛ばして、更に続ける。 「ザノの命令だろうが、今はお前の方が大事だ。ドゥーショの危機よりも、ドゥーショの未来の方が大事なのさ」  俺自身、正体の分からない怒りを感じながら、拳を握りしめる。歯軋りを立て、額に皺を寄せながらシドを睨みつける。 「お前は……」  しかし、言葉は出なかった。  俺がシドに奪われたものは、正直自分でも何であるのか明確には分かっていない。しかし、心に穴が開くような、苦しくなるような、――誰にも知られずに死んでいくような。仮に俺が死んだとしても、きっと遺体は誰にも気づかれないだろう。透明人間は、雨の中でしかその存在を示せない。シドは、俺がドゥーショを抜ける時にそう言った。悔しいことではあるが――事実、俺もそうであると思っている。 「お前はッ……」  だが、俺は雨が嫌いだ。  もう誰も、俺を見ないでくれ。 「ロクデナシ、だ……」  唯一振り絞った雑言に、シドは鼻で笑うだけであった。「ロクデナシの街にロクデナシは付き物じゃねえのか?」それから、何食わぬ顔で滔々と語り始める。 「一応、フェンから聞いていると思うが、改めて言わせてもらおうじゃねえか」 「改めて聞くまでもねえ、ファック・オフだ」  そう言うなよ――シドは馴れ馴れしくそう言った。ゆっくりと俺は後ずさりした。 「ドゥーショに帰ってこい、ユウヤ」  そうして、新たな煙草を懐から取り出して、口に咥える。火をつけようとライターを取り出したが、湿気っていて上手く火が灯らないようであった。 「俺たちは、お前を待っている」  果たしてそこに、人間としての俺を待っている者はどれだけいるのだろうか。ドゥーショに籍を置いている体質者はネグドくらいしかいないが、彼だって人間扱いされているのか怪しいところである。  俺は一呼吸置いてから、口を開いた。 「……俺は雨の中でしか認識されない」 「ドゥーショは雨みたいなものだ」 「聞き飽きた口上だ」 「昔は、悪かった。あれは俺も、言い過ぎた」 「……よくもまァ、抜け抜けと」 「これも、本当だ」 「……パラノイアが」  言っている間に、シドはゆっくりと俺との間合いを詰めてくる。「――それ以上、近寄るな」結果、俺とシドとの距離は、大股で四歩、と言ったところであった。少しでも余裕は持たせておきたい。俺は身体の重心を後ろに移し、いつでも逃げられる用意をした。それに気づいたのか、シドも深く踏み込む体勢をとる。 「これが最後だ」シドの前髪が、揺れる。最初とは明らかに違う、今度は怒気を含めた声で、有無を言わせぬ声色であった。 「ドゥーショに、戻ってこい」 「……ことわ」  言い終わる前に、シドが一息に間合いを詰め込んできた。一瞬遅れて俺も後ろに跳ぼうとしたが、シドの方が速い。右手で頭を掴まれ、勢いに任せてそのまま床に叩きつけられる。「ガッ――」後頭部を強打し、視界が揺れる。  歯が抜けたような感覚。一瞬、世界の地盤が崩れ去ったような気分を味わう。フードが脱げ、頭部が露わになる。顔を流れる液体が血であるのか、雨であるのかは分からなかった。 「仕方ないなァ、お前がそういうなら、仕方ねぇよなァ」  今まで散々お前も邪魔してたんだから、とシドは手に力を込め始める。頭蓋骨に音が走る。このままだとマズイ――痛みを感じるよりも先に、俺は咆哮していた。 「――いい大人が、暴れてんじゃねぇ!」  両手でシドの身体を掴んで、上体ごと半回転する。シドを下に、俺が上に――形勢が逆転する。しかし、頭部を掴む手はまだ取れない。この若造が! シドが激昂する。俺は馬乗りになって、無我夢中にシドの顔面を殴りつける。戦ったところで勝てる相手でないのは分かっているが、戦わなければ逃げられないのだ。――否、勝つ気で戦わねば、と自らを奮い立たせる。  倒れてくれ、気絶してくれ。祈りのような想いとともに拳を振り下ろすが、シドにはほとんど効いていないようで、薄い笑みを浮かべていた。背中に嫌なものが走る感覚がして、自然と殴る手数は増えていく。 「――痛ェんだよ若造ォ!」  右頬に、熱を感じた。殴られたのではない。シドの左手を見ると、刃渡り十五センチ程度のナイフが握られていた。ふざけんなよ――俺は再度間合いをとる。シドも数歩後ろに下がり、ナイフを右手に構え直した。  軽く息を切らしながら、思いを巡らせていた。雨が横殴りに叩きつけてくる。視界が悪くなってくる。 「シド……お前が見ているものは本当に正しいのか?」  口をついて出たそれは、あの日シドに投げかけられた問いであった。 「懐かしい問答だなァ、今更そんなモン、するんじゃねぇよ……」 「俺は、正しくないと分かった。だが、お前はどうなんだ、シド」  シドは一度だらりと腕を下ろし、空を仰いだ。雨脚は更に強くなる――本格的に台風が来た、と思った。暗雲に覆われた空には、温もりを感じない。 「――あァ、俺は」シドが不意に懐から何かを取り出した。 「正しいんだよ!」  拳銃だ。「嘘だろ……ッ」オートマチック式の拳銃。恐らく、密売した商品の余りか何かをくすねたのだろう。  この風雨の中で照準が定まるかどうかは別として、現代技術の薬莢は水に濡れても使えてしまう。それ以前に、銃の強みは「音」と「恐怖」である。――この場では適当に撃たれるだけでも、十分な脅威となるだろう。  まず二発の銃声。  クソ、と俺は捨て身覚悟でシドに突っ込む。迷っている時間が一番危ないと判断したためだ。弾は身体を外れたらしい。シドは口を鳴らし、ナイフで突きを放つ。それを左手でいなし、右手で裏拳を叩きこむ。  シドがのけぞり、怯んだところに中段蹴りを食らわせる。当たる瞬間にシドは僅かに後ろに跳び、衝撃をいなそうとする。俺はそのまま足を振り抜き、シドは後方に吹っ飛んだ。上手く衝撃は伝わったらしく、壁にぶつかり、大きく息が漏れる。そのまま両腕がだらりと垂れ下がり、動く様子はない。  「ナイスだ」俺はとどめを刺そうと、シドに近づいていく。シドの表情は見えない。間合いが二歩半辺りになって、突然、嫌に歪んだ口角が、開いた。 「上手ぇ、が、惜しい」  ――右脇腹に鈍い痛み。燃えるような熱と、太い針で貫かれたような感覚。発砲されたのだ。反射的に叫びそうになるが、元より撃たれることは覚悟の上である。大丈夫だ、痛くねぇ――そう言い聞かせて、追い討ちをかける。  俺は残りの間合いを一気に詰め、シドの首に腕を回してそのまま締め上げる。 「ッノ、ヤロウ!」  弾切れを起こしたのか、あるいはマガジンを交換しようにも俺が抑えているためできないのか、拳銃で、時には肘鉄で被弾した箇所を執拗に殴りつけてくる。腹部に何度も衝撃が走った。――激痛。嘔吐感。呼吸の乱れ。内臓が揺れる度に訪れる虚脱感。意識とは裏腹に、思わず手を緩めてしまう。  シドはその一瞬の隙を見逃さず、俺のチョークスリーパーから抜けると、回し蹴りを放ってきた。避けねば、と思うが足が思うように動かない。身体全体に走る衝撃。宙を浮く感覚。目線を落とせば、建物の縁を超えて落下するところであった。  マズイ。横目にシドの笑う顔が見える。雨に濡れて、髪はぐしゃぐしゃになっていた。重力に逆らえないまま、落ちていく。クソ――俺はパイプを片手で力の限り掴んだ。腕に全体重がかかり、呻いてしまうが、なんとか減速できた。地上二階といったところである。なりふり構っていられる状況ではない。俺はフードを被り直し、人の往来の中に飛び込んだ。 「ユウヤァ! 逃げンじゃねえ!」  戦略的撤退だ。心の中でそう言って、脇腹を抑えながら人の波に逆らっていく。大量の視線を感じる。いい気分はしなかったが、シドも迂闊に飛び込んでこれないだろう。  人が少ない場所に出た。隠れねばと視線を彷徨わせているうちに、視界の端にシドの影が現れた。 「運がねえよなァ、ユウヤよ」  銃をこちらに向け、勝ち誇ったように笑っていた。俺は気づかれないように少しずつ建物の方ににじり寄っていく。やがて、指の先がそれに当たった。 「……あァ、そうかもしれない」  でもな、と俺はそれを掴んだ。 「まだ策が尽きたわけじゃねえんだよ!」  そして、力の限りそれを振りかぶる。明星街の至る所に立ってる案山子である。かなり重量はあるが、盾くらいにはなってくれるだろう。シドはそれを右腕で受け止めて、左手のナイフで案山子の頭を切り裂いた。 「ックソ、汚ねえな」  形を保つための綿とともに、隙間から目玉が零れ落ちてくる――視神経の先には脳髄が繋がっていた。死人に口無し、俺は案山子を両手で振りかぶり、シドに叩きつける。「お前――」「構うかよ!」二度、三度――観光客からの悲鳴が聞こえた。構わずに俺はシドを殴打する。四度、五度――。 「透明人間だ」  不意に、そんな声が聞こえた。視線を上げれば、観光客の持つ携帯がこちらを向いていた。しまった――咄嗟に案山子を、カメラを構えていた客に投げた。案山子の中身を見て、再度悲鳴が上がった。  今のうちに――。シドを振り返る間もなく、とにかくここから離れようとまた走り出す。 「ユウヤァ!」  後方からの怒号に一瞬止まりそうになってしまうが、気にする余裕はない。透明人間という情報の流出は、ある意味ではドゥーショも望んでいないことである。シドが観光客の携帯を壊してくるならば、もしかすれば上手く撒ける可能性もある。  何であれ、距離を取らねば。人がいない場所がいい――ハオから離れなければ。 「どこか……ッ」  銃声。今度は背中に衝撃。気絶するかというほど痛かったが、上手く骨や内臓を逸れたのだろうか、走ることは続けられた。裏路地に入り込み、透明化しようと試みる――銃声。左腿を弾丸が貫通した。 「クソッ……」  受け身も上手く取れず、顔から地面に突っ込んでしまう。口の中に砂利の味がする。立ち上がろうと試みるが、足に力が入らない。 「よォ、もう逃げねえのか」  シドの声。リロードするような音も聞こえたが、立ち上がって逃げるだけの気力も湧かなかった。 「もういいのか?」  勝ち誇ったように、そう言った。クソが――路地の奥の方を見て、そこで俺は唖然としてしまった。先日ハオと来た酒屋の裏口――、店主が捨てていたゴミ袋。雨がしとしとと水溜りを広げている。そして――ハオが、立っていた。 「ユウヤさん!」  この状況が見て分からねえのか――。「これを!」「おい、ハオ――」言う間もなく、ハオは路地の奥の方へ駆けて行った。シドを振り返るが、彼は気だるそうにハオの後ろ姿を見ているだけであった。そして、大きく欠伸をした。 「あァ、そいつが噂の記者かよ」  興味がないとでも言いたげに吐き捨てた。それから、そう言えばシドはハオを攻撃することを禁じられていることを思い出した。いや、そうでなくてももう彼にとってハオはどうでもいい存在なのかもしれない。  ひとまず、良かったと安心する。  それから、ハオが走って行った方向を見やった。彼が手をついていたダストボックスの上に、何か光るものを見つけた。――そういえば、何やら言っていた気がする。  目を凝らしてみる。置かれたものの正体を理解した瞬間、俺はああ、と漏らしてしまう。結局、改めて神などいないのだと実感させられただけであった。 「なんだよ、もういいのかよ」  シドが言う。よくもまあ今まで大人しくしていたものである。俺は壁に寄りかかりながら立ちあがって、ダストボックスの方へ歩いた。覚束ない足取りに、シドは愉快そうに笑った。 「おォ可哀想なユウヤ、もう死にそうじゃねえか」 「……運がいいもので」  言いながら、平衡感覚も失われていることに気づく。失血が多すぎたのか、少し気を抜けば意識が飛びそうな気配があった。――いつかと同じように、鴉が鳴いたような気がした。  俺はダストボックスの上から、ハオの置いて行ったソレを掴んで、ポケットに突っ込んだ。そしてシドの方を向いて、――彼からは見えないものの、じっと見据える。  体力的にも、これが最後になるだろう。 「……来いよ、シド」  これからどうなろうが、どうだっていい。  雨は、降り止まないだろうが、しかしそれでいい。雲に切れ間ができただけ。それでいい。 「あァ、やってやるよ、ユウヤ」  シドが拳銃を捨て、ナイフを構えて突進してくる。いいぞ、と俺は思う。細く息を吐き、覚悟を決めて――右足を後ろに引いた。  そのまま、シドは突っ込んでくる。俺は両腕をだらりと下げ、ナイフが刺さる大体の位置を予測する。そのまま、何もしない――衝撃。腹部から広がる生暖かい感触、込み上げる嘔吐感に思わず吐いてしまう。シドがいつもの笑みを、下品な笑みを浮かべる。 「残念だったなァ、ユウヤ――」 「――さァて、それはどう、かな」  今だ、と俺はポケットからそれを取り出し、両腕を振った。  静寂。シドは一瞬、苦しむような表情になる。数歩後ろによろめき、壁に手をついてかろうじて立っていた。俺が言うのもなんだが――しぶとい奴である。 「ユウヤ……ッてめェ……」  それだけ言い残して、ようやくその場に倒れた。 「……ヘッ」  何が起きたのか分からない、と言った表情である。俺は両手を見やすいようにシドに向けた。手の中には、割れたビール瓶の破片。シドがナイフを突き刺し、油断したところで破片を使って左右の頸動脈を切ったのだ。 「ハオが、握らせてくれたンだよ」  お前の負けだ、と倒れた拍子に飛んできた煙草を踏みつけ、シドを見下ろす。何か言いたげに口を動かしたが、それは言葉にならないまま彼は数度痙攣し、動かなくなった。水溜りにシドの血液が流れこんで、じわじわと広がっていた。  何か胸が軽くなるものを感じながら、俺は天を仰いだ。雨が、顔に降りかかった。 「……帰ろう」  今からハオを探す気にはなれなかった。今から追いかけてもこの傷である。ハオの移動するスピードの方が断然早い。それに、明星街で逸れてもどこかで落ちあえることなどそうそうない。まさか、暁闇街に帰ってくるなどあり得ない話である。  空港か、車かは知らないが、上手くゾラが誘導してくれていると信じて、俺は独り帰ることにする。  あいつとは今日限りだ、と俺は思った。  風が強くなり、雨が横殴りに降り始めていた。 * * *
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