【拝啓、ニル・アドミラリ】

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【拝啓、ニル・アドミラリ】

**********  にわかに目を開けて、そして自分が仰向けになっているのが分かる。帰ってきた後に感じた浮遊感とは大きく異なり、今度は地面に吸い寄せられるような身体の重みを感じていた。  ――生きていたのか。ゆっくりと息をつき、そして傷に手を当てた。まだ痛むが、一応は落ち着いたようである。包帯が巻かれている。ゾラだろうか、とぼんやり考えていると、聞いたことあるような声が降ってきた。 「よかった、死んでなかったな」  ひょいと覗いた顔に一瞬疑問符が浮かんだが、焦点が合うにつれ彼の姿が像を結んだ。長ったらしい前髪が、鼻に当たってくすぐったかった。 「……黙ってろよ、フェン……」  喉が乾燥しているためか、上手く声が出せない。フェンはそれを察してペットボトルを俺に手渡す。「飲めるか?」上体をおこして、楽な姿勢にしてくれた。 「ああ……ともかく、血が足りねえ……」 「輸血なんて素人にはできないよ」 「肉とか……食わねえと……」 「とりあえず大人しくしてなよ」  頭がぐわんぐわんする。ゆっくりと一口ずつ水を飲んで、やっとひと段落する。ふうと大きく息を吐いて、それからフェンに礼を言った。 「まったく、手当てする身にもなってほしいね」 「いや、……悪い」 「ゾラにも感謝だぞ、ユウヤ」 「……そうか」  そういえば、帰ってきてからどうなったのかいまいちよく分かっていない。段々と目覚めてきた頭で周りを確認してみる。俺とフェン以外、誰もいないようであった。外を見る限り空はまだ明けていないようである――恐らく、丸一日は眠っていたのだろう。 「正直、お前も死ぬのかと思ったよ」 「……今更だ」 「まァ、こうして生きている。ユウヤ、君の勝ちだな」  ということは、本当にシドは死んだのか――。昨日は出血が酷くてそんなことを思う暇はなかったが、今になってようやくその実感が湧いてきた。  シドに、勝ったんだ。 「……じゃあ、ハオは? 何か、聞いてねえか?」 「ハオ君は……特に、何も」  フェンは首を横に振った。分からない、という意味と、ドゥーショにそれらしい連絡はない、と二つの意味が含まれていた。 「……そうか」 「少なくとも、ドゥーショに始末されたとかはないはずだよ」 「ゾラは、立派にやってくれたんだな」 「死んでないから、そんなこと言わないであげて」 「ああ、そうか」  言ってから、再度全身の虚脱に襲われる。とにかく致命傷は無理矢理閉じてくれたらしいが、聞くところによると弾丸の摘出はどうしようもなかったとのことだ。これから膿んだりするだろうが、最低限の処置はしたと言う。――まァ仕方ない、ともう一度俺は寝転がる。 「これはシドの置き土産、ってことで」 「足のヤツは運が良かったな。貫通してた」 「そりゃいいや」  言ってから、段々と頭の中で整理がついてくる。シドのこと、ドゥーショからの監視の件、ハオのこと――。結局、また独りになったんだなと思った自分に、少し驚いていた。 「……俺さ、今になって気づいたんだけど」  そう、口を開いた。 「ハオといて、楽しかったんだな」  フェンは少し目を見開いた。そして哀れむように俺を見下ろした。 「ユウヤ」 「ああ、いや、違うんだ」  フェンの目の前でひらひらと手を振って、大丈夫だと示した。鴻業城での別れなど、死別以外なら上々なくらいだ。ここはハオが「生きて」本国に戻れたのならばそれで良しとするべきだろう。  むしろ、俺の心残りは別のところにある。それをフェンに言うと、何のことかと問いただした。言ってから、俺は言っていいものかと逡巡する。フェンはそれを察してか、ドゥーショには言わないと約束してくれた。 「……俺がシドを殺せたのは、間接的ではあるけれど、ハオのお陰なんだ」 「……何が、あったんだ」 「別に、大したことじゃない。ハオがガラスの破片を置いていったんだ――あの状況で刃物を置いていったらどうなるのか、分かってたはずなのに」  きっと、鴻業城に来たばかりのハオならば決して実行しなかったことだろう。あるいは、俺があの路地に入らなければ――ただのたらればでしかないが、そう思っていた。 「……殺人幇助か」 「ああ、俺はハオを『鴻業城』って魔窟から、守れなかった」  それがたまらなく心残りだ。  自分で言った言葉が頭の中で思い返される。 「鴻業城に慣れたら、駄目なんだよ」――それは自分のようになるなという意味も含んでいた。  俺のように裏社会に慣れてしまうな――慣れてしまった時点で、蛇の毒は全身に回っている。  ハオは、果たして日常に生きていられるのだろか。俺の心情を察してか、フェンは口を開いた。 「よくやったと思うよ、僕は」 「……本当に、これでよかったのかね」 「鴻業城であれこれ考えても仕方ないっていうのはよく分かってるだろ?」 「そう、だが」  はぁ、とフェンはあからさまに面倒だと示した。俺はフェンから目線を逸らす。彼は外を見てみろ、と俺に言う。――別に、何の変哲もない空である。ここしばらく雨が降っていたお陰か、数日は雲一つない朝になるだろう。太陽はまだ出ていなかったが、雲がないのは確かであった。 「今日は太陽が眩しいだろうな」 「……だから、何だよ」  俺が問いただすと、彼は得意になって言った。 「雲は晴れたんじゃないか?」  すぐに意味が分からなかったが、少し考えて彼の言わんとすることを理解した。そして、寒い台詞を、と俺は言った。だが、夜明けを迎えた街とは、なるほど明星街の目指すべきはこういうものなのかもしれない。俺は寝転がって、吐き捨てるように――だけど心のどこかでは、どこか満ち足りたものを感じていた。 「何だよ、それ」  フェンはおかしげに笑った。 「もう太陽も昇ってくる頃だよ」 「嫌だよ、目が痛い」 「そう言わずに、起こしてやるから」 「やめてくれって、痛いんだよ」 「ほら、起こすよ」  フェンは言いながら、無理に俺の身体を起こした。銃弾が食い込んだようで、痛みが走る。馬鹿野郎、と彼を叩いたが、フェンは隻腕で空を指し示すだけであった。渋々ながらにそちらに目を向けると、青暗い空が少しずつ白んできているところであった。 「日の出なんて、久し振りだろう?」 「太陽なんて、珍しくもない」  強がってみせたが、俺は刻々とトーンが変わっていく空から目が離せなかった。やがて太陽のほんの端が見えて、思わず目を覆ってしまう。フェンは何も言わず、その様子を可笑しげに見ていた。 「どうだ、ユウヤ。やっぱり雲は晴れただろう?」  彼は自分のことでもないのに誇らしげに語った。  太陽が目に痛い。人工的な灯りとは違うものが暁闇街を照らしている。所々崩れたコンクリート壁の建ち並ぶ街を見下ろすものは――少なくとも俺にとっての強大な化物は姿を消した。 「……目が痛いな」  しかし悪くない。  悪くは、ないのだ。 **********
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