【廃材塔は中心に立つ】

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【廃材塔は中心に立つ】

**********  男は、名刺とともに、ハオと名乗った。中国の放送局員で、ドキュメンタリィか何か、ともかくネタ目当てに鴻業城――というよりも明星街――に来たようである。愚かなことを、と言ってしまいそうになったが、全力で嚥下した。 「でもまさか、透明人間なんて本当にいるとは思いませんでしたよ」  裏路地のダストボックスの上で、彼は胡座をかきながら至極楽しそうに言うが、対して俺はかなり気分が悪くなっていた。「体質なんて言っても本当に見る機会なんてあまりないですしね。都市伝説みたいなものですよ。いやあ、まさか透明体質なんてあるんですね」  俺はマスクを付け直し、フードを深々と被る。そして溜め息まじりに口を開いた。「……ちょっと、黙ってくれないか」  意外にもハオは、大人しく口をつぐんでくれた。俺は両手を合わせて、合掌するように顔の前に持ってくる。  祈りを捧げるような仏や神を、俺は知らない。信じるものは目に見える現実だけである。剥き出しになったコンクリート壁と緑色のダストボックス、絶え間なく顔を伝う雨粒。中国からの記者と、三人のゴロツキ。そして、俺という透明人間。 「……ふざけたものだ」  ――この状況から逃げ出すのは容易いが、そうすれば俺の存在を世間に報じられるかもしれない。写真を撮られているのだ、彼がその一枚に一体どれだけの危険を孕んでいるのかを知っているようには見えないが、現在俺は「透明人間」というネタで脅迫されているようなものであった。  それを「体質」として報じられるならばまだいいが、もし「透明人間」が実在すると報道されれば、その結果は大体予想がつく。考えうる最も面倒なことは、俺自身が世間からも追われる身になることである。  今も半ばドゥーショに追われる身ではあるが、それは半監視半放任という扱いである。別に今の時点で特に不自由しているわけではないが、これ以上周りに目を増やされ、自由が奪われることになるのは願い下げであった。  ここで彼を始末しても良いかもしれないが、それはそれで極力避けたかった。単純に中国からの賠償金云々という法的な問題のせいである。もしそうなった場合、賠償金を払うのはリェン=ドゥーショになるだろうが、賠償金の原因が俺にあると知られたら何が起きるか分かったものではない。最悪、内臓を売られる可能性だってある――鴻業城の他に行くあてのない者として、そのような問題に巻き込まれた時点でほぼほぼ死が確定する。  過去にわざと標的を逃していた元殺し屋の末路を、俺は知っている――ドゥーショは、元仲間に対してでも容赦はない。否、現在進行形で仲間であったとしても油断はできない。いざとなれば、仲間など蜥蜴が自切するように切り捨てるのだろう――果たして蛇が自切するのかは知らないが。  結局、取材を受ける代償と、透明人間という存在を報道されるリスクとを冷静に比較したところ、ここでは交換条件として、適当にハオの取材を受けることが最も理にかなっているという判断を下した。 「……ハオ、取引しないか」  そう、切り出した。待ってましたと言わんばかりにハオはこちらを向く。 「取引、ですか」 「ああ。俺はこの街のことを、あるいは地域のことを、知っている限り教えよう。お前はそれを本か何かにして売り込めばいい。代わりに、ここに俺という透明人間が実在したってことは誰にも言わない。さっきの写真も、削除する」 「……それは」  一番美味しい場面がなくなる、と言いたげである。俺は気にせずに続ける。 「逆に、俺以外のことならば何を報じてもいい。取材代とか、金とかも要らねぇ」  勿論、幾つかの情報は誤魔化したりするが。ある意味、これはハオを思ってのことであった。 「条件としては破格だと思うが、どうだ?」  ハオは黙りこくってしまう。  大通りからの足音が響いていた。微妙なエコーが含まれて、俗世から離れた世界のように感じた。どこかで鴉が鳴くのが聞こえた。ゴミの饐えた匂いが地上から湧き上がってくる。スモーキーマウンテンや九龍城砦ほどではないが、明星街の裏通りも、お世辞にも衛生環境がいいなどとは言えなかった。 「もちろん、この取引には応じなくてもいい。だが、どちらにしろ写真だけは――あるいはそのカメラを、お前から奪って、修復できねぇくらいにぶち壊す」 「それは……」  流石にカメラを壊されるのは嫌だと思ったのだろう。彼は両手でそれを抱え込んだ。半ば諦めきれず、と言った表情である。しかし俺は構わずに、口を開いた。 「もしそれを反故にするんだったら」俺はすぐ近くに立てかけられている鉄パイプの残骸を一本掴み、ハオの眉間に向けた。 「この街でなら、お前を殺す人間くらいすぐに雇える。例えお前が国に帰ったとしても、な」その気になれば俺自身でもできるんだ――言いかけて、やめた。これ以上は、安っぽい脅しにも聞こえるはずだ。  代わりに鉄パイプを振りかぶり、ハオに振り下ろして――「ヒッ」寸前で止める。「それが、取引の内容だ」  そして何事もなかったかのように鉄パイプを元あった場所に戻し、ゆっくりとハオの返答を聞く。 「さて、どうする?」  彼の目は、恐怖と好奇心との間で揺れていた。――しかし、時に人間は好奇心が恐怖に勝ることがある。だからこそ、明星街は存在する。その成れの果てが暁闇街だ。  鴉がビルの屋上から俺たちを見下ろしていた。何体かは地上に降りてきてダストボックスを漁り、生ゴミを食い散らかしている。立方体に刻まれた肉片を啄ばみ、一声満足そうに鳴いた。先ほどとはうって変わって、獣の匂いが辺りに立ち込めた。ハオは一瞬それに目を向け、汚らわしいものを見る目をしてから俺に目線を戻す。  そして、彼はか細い声で言った。 「……分かりました……」  俺は心の中でよし、と思った。大体狙い通りである。それでも恐慌状態になり、うやむやにされるよりはマシだろう。 「写真、消してくれよ」  ハオが先ほどの写真を削除したのを確認し、俺はよし、と呟いて立ち上がる。とりあえず食料調達だ、と続ける。踵を返すと、ハオも半歩遅れて後を追いかけてきた。 「……あァ、その前に」  立ち止まり、ハオに振り返った。「一応、先に言っておくぜ」「な……、なんですか」ハオは何を言いだすのだろう、と強張った表情で俺を見つめていた。  俺は少し笑って、しかし真剣なトーンで、口を開く。 「この街では、正義とか悪とか、一々考えンじゃねえぞ」 「……それは、どういう……」 「考えるだけ無駄だからな」  ハオの頭に疑問符が浮かぶのを感じたが、実際に見てみれば否が応でも分かるだろう。それ以上説明する気はなかった。 「忠告は、したからな」  彼の返答を聞くこともなく、路地を進み始める。  水たまりがいくつか広がっている。パイプから滴り落ちる雫が大きな波紋を作り、広がっていった。ゴミを漁り終わったのか、鴉が飛び立っていく。雑踏の音が、静かに響いていた。 **********
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