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帰宅するとすぐに上着を脱ぎ、ハンガーにかけて、剥き出しになっている鉄骨に吊り下げる。寒くないわけではないが、耐えられないほどでもない。だが本来の意図は別のところにあり、例えば万が一の襲撃などに備えて家では基本このスタイルである。
今日ばかりはハオがいるが、別に脱いだところで彼からは見えないし――そもそも全身全体を透明化すれば俺自身裸のようなものだ――男同士なので気にすることもない、と考えた。
ハオが尋ねる。
「寒くないんですか?」
「今日はちょっと寒いな」
「どうして、脱いだんですか?」
「ヤバい奴らに命を狙われてる、って言ったらどうする?」
そんなフィクションみたいな話、と一笑しようとしたのだろう。しかしすぐに明星街の様子や話を思い出したらしく、あながち冗談でもなさそうだと真面目な表情になった。
「まァ、半分監視半分放任ってところだ。今まで大丈夫だったんだから、多分大丈夫だろ」
「多分、って……」
「むしろ監視されている間は殺される心配がないんだよ。窮屈だが、悪いことばかりでもねえんだよな」
今日ばかりは俺の動きが見えるように、手袋はしたままである。
「だけど一応、念のためだ」
「そう、なんですか……」
「まァなんだ、適当に座ってくれ」
一応ハオの座りやすいように物をある程度どけてやる。折れた鉄骨やコンクリート片などが散乱しているが、掃除する気などは毛頭なかった。
ハオはしばらく逡巡していたが、最終的に諦めたのか、比較的平らになっている鉄骨の上に腰を下ろした。
「まさか、家に誰か来るとも考えたことなかったな」
俺はその様子を見ながら、まだ熱々の中華饅を頬張り始める。ハオも自分の買った分を取り出して、黙々と食し始める。
「美味いか?」
「ええ、意外と」
「例えばその肉――組織に処分された人間が使われているって言ったら、どうする?」
ハオは一瞬硬直して、それから中華饅の中をしげしげと見た。なんてことはない、正真正銘の豚肉である。そのことを告げると、やめてくださいよ、と彼は抗議してきた。
「悪い悪い、だけどここじゃそれくらいの危機感を持ってるくらいがいいんだよ」
「それは……そうなんでしょうけど……」
「まァ、流石に俺でも人肉は食えねえよ」
もう何も信じられない、と言わんばかりに彼は顔を背けた。俺のセリフのせいで少し想像してしまったためか、中華饅を頬張るスピードが遅くなっていた。俺はそれ以上は何も言わず、黙々とそれをかじっていく。
暁闇街の外れにある空き家――一応、俺の今の住まいである――は、昔火事で全焼した家だった。何故全焼したか、あるいは元々誰の所有物かなどは知らないが、壁が穴まみれであるあたり、酷い火事だったのだろう。しかし、最低限の天井と床は確保されているため、寝床としては十分だった。少なくとも、他のスラムや建物で生きる者と比べれば、一人暮らし用の一軒家として贅沢な暮らしである。
無言で口を動かしながら、外を見やる。さっきよりも雨が強くなっているように感じた。ここには時計がないため、雨が降っていると時間の感覚が狂ってくる。視線を戻すと、中華饅を食べ終えたらしいハオは、持っていたバッグから出したノートに何やらメモをとっていた。
「熱心だな」
「はい、ええ……まだ駆け出しですから」
「記者ってのは、儲かるのか?」
この質問は単純な興味からであった。透明人間という体質や生まれは別として、人生の七、八割をこの街で過ごしたというのもあり、「普通の生活」というものに興味を持つのは半ば必然であった――それが叶わないものであるならば、尚更に。
既に「普通」とは縁を切ったものだと思っていたが、無意識に未練を感じていたようである。片想いしているような気分だ、と俺は自嘲した。
「若いうちは、あんまりって感じですね……」
「……なあ、お前何歳だ?」
「え、二十八ですけど」
「微妙に歳上か」
「えっ……ユウヤさん、何歳なんですか」
「むしろ何歳だと思ってたんだ? 参考までに教えてくれよ」
「三十歳くらい……です」
「二十二だよ」
ハオは意外そうにペンを置いた。「若い、ですね」「……歳下って言っただろうが」そこで俺はペットボトルを掴み、半分ほど飲み干す。
「……今更ってのもあるが、敬語使う気はないからな」
「それは別にいいんですが……」
「しかしそうか、俺ってそんな老けてるのか」
顔が見えないというのもあるだろうが――少し意地悪な言い方だっただろうか。ハオは少し困ったように口を開いた。
「そういうわけでは……」
お世辞とも言い訳ともとれないような弁明を始める。俺の逆鱗に触れないように――などと思っているのかもしれないが、別に気にしてはいなかった。
「歳なんて、普通に生きるのに支障はねェよ」
――明星街で生きていかない限りは。
「……俺たちは俺たちなりに生きてるだけだ」
鴻業城自体、紛うこともない違法の街であるが、それでも表立った殺人などがそうそう起きないのは、ドゥーショが秩序を作っているためだ。見過ごされる犯罪もないことはないが、少なくとも「大半の」観光客がこの街で、「普通に」通りを歩けるのはドゥーショがいるお陰だろう。
「……まあ、運が悪いと人生が終わったりするけどな」
「麻薬やってる時点で、人生終わってますよ……」
「ここにはそんなものよりもやべえヤツがいくらでもあるぞ」
ハオから生唾を飲み込む音が聞こえた。言葉にはしなかったが、それはどういったものだと言いたげな目をしている。
「……知らない方がいいぞ」
「知らぬが仏、ってことですか」
「何だよ、それ」
「あれ、『ユウヤ』って日本人の名前じゃないんですか? てっきり発音的にそうだと」
「ああ、日本の言葉だったか。悪いんだが、一応日本生まれだけど、日本育ちじゃないからロクに日本語は知らねぇんだ」
実際のところ二、三歳くらいまで日本に住んでいたが、ほとんど両親や周囲の人間に気味悪がられた記憶しか残っていない。二十年ほど前のことなのに、嫌な記憶はよく覚えているものである――いくら珍しくても、所詮透明人間なんてそんなものだ。
「精々が『死んじまえ』『くたばっちまえ』くらいだ」
「それは……」
言ってから、ハオは口を噤んだ。
「あんまり良い記憶がないな。いや、今もそうだが、でも昔よりかは幾分かマシか。皮肉なもんだぜ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
「何が、あったんですか?」
「勝手に喋っといてこう言うのも何だが、無闇に詮索するものじゃねぇよ」
「す、すみません」
「……要らんことに首を突っ込んだ先は断頭台だった、なんてことはざらにある」
そう言うと、ハオは居心地が悪くなったのか俺から目を逸らした。ちら、と彼のノートを見ると、色々なことが乱雑に書かれている。そういえば、と思って俺は彼に話しかけようとしたが、この空気では難しいと思って、独り言として呟いた。
「……また戦車に猫が入ってやがる」
ハオが顔を上げたのを感じた。息をつきながら外を見やる――視界が悪くなってはいるが、それらしき形のものが遠目に見えた。
「……雨、強くなってら」
ハオは何かを察してか、特に何も言わなかった。
暁闇街の所々には銃火器だとか兵器だとかの残骸だとかがかなり散乱している。昔は火を噴いて戦争やらしていたのかもしれないが、今となってはただのオブジェに等しい代物だ。
もしかしたら、どこかの軍にその時の資料が残っているかもしれない。しかし、一記者がそんなものを見れることはほぼほぼないだろう。
俺はそんなものに興味はないが、ハオにとっては多少のネタにはなるだろう。彼はノートにメモを取っていた。
――もしかすれば、ここの老人どもなら知ってるかもしれねえが。
そう思っていると、ハオがふと口を開いた。
「……人気が、ないですね」
「雨だから、かな」
「みんな、どこにいるんでしょう」
「集会所か、傭兵業かで出てるんじゃねえのか」
「集会所って、危ないやつですか」
「馬鹿、暁闇街は明星街よりか平和だよ」
本当ですか、とでも言いたげにハオの目線が刺さる。
「……でも、用心はしろよ」
「肝に銘じておきます」
冗談にとられてしまっただろうか。しかし、外部の人間がこの街で油断など、愚かにも程がある。
ここに至るまでハオに話したことのほとんどが嘘なのだが、一つでも真実であってほしいものはないはずである。正直、俺も同じ思いだった。
「……お前は知らない方がいい。それ以上は踏み込まねぇ方がいい」
「どうしてですか」
「鴻業城に慣れたら、駄目なんだよ」
そうなのか、と大人しくハオは引き下がり、しかしあからさまに気を落とした。
「暁闇街じゃ歳食って一人で動けなくなった奴は、大体がただ死ぬのを待つだけだ」
「それは……」
「同情するなよ。この街では、一人で生きていくだけの力がない奴が悪い。死んでいく奴らも、それを重々理解している」
「そう、なんですか……」
「俺も、お前も、悪くない」
虚しいな。俺は自然とそう呟いていた。
「もし、ユウヤさんがいきなり亡くなっても……」
「あァ、ほとんどねぇ確率だと思うが、もしそうなってもお前は悪くない。事故か、病気かとかは知らねぇが、不注意だった俺が悪い、ただそれだけだ」
「もし僕が死んだら……」
「それは、不注意だったお前が悪い。ただそれだけだ。死体から貰える物は何でも貰っていく。例えそれが倫理に背いていようがな」
「……例えば内臓、とかですか」
「それがここの価値観だ」否定する気は、あまり起きなかった。
「……正気じゃない」
「かもな。だが、今更だ。だからここに慣れちゃいけないんだよ」
そう言うと、ハオは少し身震いしてから、何やらノートに向かい始めた。俺はそれをしばらく見つめてから、段々と膨れつつある睡魔と戦いながら口を開いた。
「なァ、お前、携帯あるし一人で帰れるよな」
扱いは慣れていないが、機能に何があるのかは大体知っていた。素直に便利だとは思うが、鴻業城で一人で生きていく場合、そればかりに頼っていたら三日経たずしてのたれ死ぬだろう。そう考えていた。文明の利器に頼るのが別に悪いわけではないが、結局は何事も程々が良いのだ。
「え、ええ、多分」
「じゃああとは放っておくから、また取材したけりゃ、ここに来てくれ」
「ユウヤさんは……?」
「コレ食い終わったら、とりあえず今日はもう寝る。その日暮らしなもんでね、明日何するかとかはまだ決まってない」
「なるほど……」やけに納得したようであった。
「もし俺がいなかったら、書き置きでも残しておいてくれ。あと夜は基本いるから」
「分かりました」
俺は中華饅を頬張り、今足りていない資源を考え始める。灯り用の蝋燭と、ライターかマッチ、金はまだ少しある。最悪、水と塩だけで一週間はいける。飯は残飯を漁ればなんとかなるだろう。あとは――などと考えているうちに、ゆっくりと本格的な睡魔が襲ってきて、自分でも知らない間に眠りに落ちていた。
雨の音に、ハオのペンを動かす音が重なっているのが、妙に心地よく感じた。
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