【世界の片隅からの幕開き】

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【世界の片隅からの幕開き】

**********  ネオンが目に痛かった。  車のガスと雨の匂いとが混ざった空気を吸いながら、傘の柄を所在無くいじっていた。傘の骨子の一本は、あらぬ方向に曲がっている。別に使えないわけではないため、特に気にすることはないが――マスク越しに溜め息を漏らした。  そして、今日の飯をどうするか、と思案しながら水たまりを踏んでいく。フードを目深にかぶっているため、すれ違っても誰とも目を合わせることはない。一瞬、孤独を感じた心に、そうあるべきだ、そうでないと駄目なのだ、と無理に言い聞かせる。泡のように湧き上がる衝動を抑えつけ、更に視線を落とす。  雨の日でも繁華街は賑わっていた。すぐ近くはスラム街だと言うのに、そんなことは知らないと言わんばかりに人々は騒ぎ立てる。わざわざこんな雨の日に――いや、こんな雨の日だからこそ、か。翳る憂鬱な気持ちを感じながら、更に歩むスピードを速める。  夜は好きだ――独りであることを隠してくれるようだから。  だが、雨は嫌いだ。独りになった理由を、無理に思い出させてくるから。手袋越しの握手など、知っただけ虚しくなる。知らないほうが身のためだ――、結局俺はどこに行こうとも思わず、ただ漫然と、裏路地を通ろうと軒の間に入っていく。同時に、お、と小さい声を漏らしてしまう。  雨の滴り落ちる先、かなり奥の方に青年が三人と、それに対し頭を下げ続ける男が一人、見えた。  この街で、特に裏通りでの喧嘩や金のせびり、闇取引などは珍しくない。むしろそちらの方が常識的な節さえある。もっとも、ドゥーショ管轄外の取引こそ違法行為とされるが、それを咎める人間は最早この街にはいない。――男の身なりを見る限り、この街の裏路地に入るには慣れていないような、まだ「初心者」の雰囲気が抜けない格好であった。 「……いいタイミングだな」誰にも聞こえないように呟いた。  俺は傘を閉じ、歩みを進める。道中、マスクを外し、深呼吸を三回程度繰り返した。そして、一度全身に力を込める。依然、雨は降っていたが、左右にそびえる建物によりかなり緩和されていた。ならば大丈夫だろう、と乱雑に傘を投げ捨てる。どうせもう使い物にならない代物だ。また新しいものを拾えばいいだけである。  口から唾を飛ばしながら男に怒鳴りつけている、茶髪のリーダーと思わしき青年の隣に、歩み寄った。俺よりも頭半分ほど大きく、体格もしっかりしている。しかし、俺の存在には気づいていない。半歩ほど引いたところでニヤニヤと笑っている二人も同様に。俺は細く息を吐き、一息にリーダー格の青年の脇腹に肘鉄を打った。え、と茶髪のリーダー格は漏らし、何が起きたのか分からない表情をして――それから一瞬のラグを経て、その場に倒れる。  続け様に後ろに立っていた子分の片方に向き直り、片方の子分の肩を掴んで俺の方へ引いて、体勢が崩れたところに渾身の膝蹴りを食らわせる。頭部に当たったらしく、彼の鼻骨が鈍い音を立てた。  ようやく異変に気づいた最後の一人が逃げようとするが、もう遅かった。まず足を伸ばし、それに引っ掛けて転ばせる。受け身も取れず倒れたところに跨り、首に右手を回し、上の方向に締め上げる。数秒の抵抗の後、彼の全身が弛緩した。  青年三人の意識がなくなったのを確認して俺は立ち上がり、対照的に恐怖でその場に座り込んでしまっている男を見下ろす。俺は全身の緊張を解き、男の目の前に立った。男は驚き、退こうとするが腰を抜かしてしまったようで――そもそも背後は壁なのだが――上手く立てずに、その場でもがくだけであった。  無理もない――急にパーカーを着た男が虚空から現れ、しかもそのフードから見える中身は空ときた。男の気持ちは分からないこともなかった。  俺は男の前にしゃがみ、姿は見えないものの、なるべく目線を合わせて、あるいは極力優しい声を出そうと努力しながら、言った。 「なぁ、助けたんだから、ちょっとくらい礼をくれよ」  男は、一瞬呆けた顔をしたが、すぐにその言葉を理解したのか、ジャケットの内から財布を取り出し、震える手であるだけの札を出そうとする。 「ああ、いや、そんな多くなくていい」  俺は手を――男から見れば手袋を、ひらひらと振った。男は俺を少しの間じっと見てから、恐る恐ると言った風に紙幣を数枚取り出し、俺に手渡した。 「こ、これで……」  いいですか、と怯える。 「いいだろ。今度はナメられないような格好してくるといい」そう言って、俺は立ち上がる。路地を抜けたところには露店が立ち並んでいるため、そこで飯を調達しようと考えた。  数歩遅れて、男が壁を支えにしながら立ち上がり、繁華街の通りに走っていく。足をもつれさせながら、息を切らして――今日の件でもう二度と来ようと思えなくなればいいが、彼はまたここに足を運ぶだろう。
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