100回目の汚れつちまつた純情

2/5
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
 築四十年ほどの古すぎて古墳みたいなアパートは、外階段も錆びてボロボロで、登るたびにキィキィ、コウモリが鳴いているような音が鳴る。ここはアマゾンの洞穴か!とツッコミたくなるくらいだ。  夜中の二時近くに、コウモリの鳴き声が聞こえてきた。二階の角部屋で、中原(なかはら)は、こたつに座ったまま、俊敏に振り返った。一時期流行ったミーアキャットのごとき俊敏さだった。  もう5月だが、こたつ布団はまだ外せない。昼間は真夏並みに気温が上がるが、夜や朝方はそうは問屋が卸さない!と言いたげに肌寒い日々が続いているからだ。  こたつに足をつっこんだまま、いち、に、と中原は、心の中で数を数える。突然の幼児退行ではない。いつもの癖だ。ちょうど5までいったところで、いつもの通り、間の抜けた声が外からした。 「おぉーい、チュウヤー、あけてくれー」 「……まったく」  軽く舌打ちをして、立ち上がる。チェーンを外し、鍵を右にひねると、酒臭い息とともに、むさ苦しい髭面の男が現れた。街灯の灯りに顔の半分だけ照らされて、洋画のホラーにでてくる狂人みたいにもみえる。 「おー、チュウヤー! 会いたかったゾォー」  やけに白い歯をむき出しにして、狂人はニカッと笑った。笑うとよけいにホラー味がます。恐ろしいことこの上ない。しかも180を超えた長身で、容赦なく抱きついてくるものだから、グエッと絞め殺されるアヒルみたいな声が出てしまったじゃないか。  そのままの姿勢で何とか後ろに下がり、近所の人にエクソシストを呼ばれる前に、何とかドアを閉めた。 「おら、小鳥遊! いつまでも抱きつくな! なんかお前、臭いぞ! 風呂くらい入ってからこいよ!」 「いやもうさっき電柱の下のゴミ捨て場に突っ込んじゃってさー。自分でも死にそーなほど臭かったんだよねぇ」 「何で人の家に来る前にゴミ捨て場にダイビングしてんだよ? アクティブすぎだろ! つーか前後不覚になるほど飲むな! あと髭もそれって言ってるだろ!」 「はーい、じゃ、今から洗い流してきまーす!」    髭面のマイペース男、小鳥遊那由多(たかなしなゆた)は、中原の肩をなだめるように叩き、勝手知ったる感じで、ユニットバスに消えていった。……あれでA型なんて誰が信じるだろうか。  B型の中原より、よっぽどマイペースで強引で、人に気を使えない大雑把すぎるやつだ。中原のことも、いつのまにかチュウヤと呼んでいるし。 「……まったく。俺は中原中也じゃないっての、中原創(なかはらはじめ)だって知ってんだろ」  そう。チュウヤというのは、小鳥遊が命名した中原の仇名である。高三の一学期。初めて同じクラスになり、名前順に座っていたとき言われたのだ。 『お前、中原なんだー! カッコいい苗字だな。じゃあ、チュウヤでいいな!』  無論反発したが、聞き入れるような男ではなかった。昔から自分勝手で猪突猛進、自分がこうと決めたら、何が何でも突き進む。困ったやつだ。  そのせいで、大学の友人たちのほとんどは、中原の本名がチュウヤだと思っている。んなわけあるかい!と言いたいが、否定するのももははやめんどくさい。  友人の愚行に溜息をつきながらも、足は勝手にキッチンまで向かっていた。こういうところが自分のダメなところだろうなーと思いながらも、手が勝手に動いてしまう。  おそらく空腹だろう小鳥遊のために買っておいた、インスタント味噌ラーメンの袋を開けた。 (俺もほんとに、やさしいよな……。あんな鈍感野郎のために、健気なもんだ)  鍋で湯を沸かしながら、キャベツと人参を刻む。最近、テレビで覚えた、野菜とバターたっぷりの味噌ラーメンは、小鳥遊も大好物の一品だ。 「うわー。いい匂いがするなー」  湯気とともに、ガラスのドアが開くと、髭も全て剃り落とした、素っ裸の小鳥遊が現れた。思わず目がお股の中心にいきかけて、あわててそらした。 「おまえ! タオル、そこにあるだろ? 腰くらい隠せよ! 汚いもん見せるな! 目が腐るわ!」   「ひっでーな、そこまで言うかー? ほらー髭も剃ったし、おっとこ前になったでしょー?」 「自分でゆーな! このバカ! 服はそのへんにあるの、テキトーに着ろ!」  実家から送られてきたピカチュウもどきのタオルを投げつけると、大げさに小鳥遊は身をよじって受けとめた。  沸騰した鍋に向かうふりをして、小鳥遊に背中を向けた。中原の顔は真っ赤だ。別に赤チンを頭からかぶった訳ではない。  髭も剃って生ゴミ臭も消えた、ピカピカの小鳥遊(改)は、本人が言うようにどこに出しても恥ずかしくないほどの男前なのだ。  そして中原は、そんな小鳥遊にずっとずっと片想いをしている。話せば長いので省略するが、高3で、うっかり彼の笑顔にときめいてしまってから、すっかり人生が狂ってしまった。  小鳥遊と一緒にいたいがために、推薦で楽勝と言われていたエリート大学を蹴って、かなりレベルを落とした地元のアホ大学に進学した。  結果的にはそこで面白い教授や仲間たちにも会えたし、悪くはない生活が送れているので問題ないが、親はかなり落胆しただろうなと思う。 (……こんなやつの、どこがいいんだろうな)  もうどうして彼を好きになったのかも忘れてしまった。ただうれしそうにラーメンをすする彼を見ているだけで、どんなヒーリングミュージックも叶わないくらい、心が癒されてしまうのだ。  ラーメンをすする音がヒーリングミュージックなんて、聞いたこともないが。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!