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彼との日常
警察本部の裏に、3階建ての古びたコンクリート製の建物がある。建物の各階には4つずつドアがあり、それぞれが独立した住居になっていた。この建物は警察官用の宿舎。その一室、2階の右端があたしの部屋だ。
主に独身や単身赴任の人が居住する建物内部は、畳敷きの六畳の部屋と併設された3畳ほどのキッチン、バス、トイレがあるだけの簡素な造りになっている。畳の日焼けはひどく、所々がささくれ立っている。キッチンの床は軋んで、歩くたびに音がする。ステンレスの流し台はほとんど光沢を失って、水道から出る水は濁っていた。バスというよりお風呂場という名がぴったりなそこには、プラスチック製で塗装の剥げた水色の浴槽に、簡易なシャワーがついた小さな洗い場があるだけだ。最近やっと和式から洋式になったトイレも一応備わっている。
お世辞にも綺麗とは言えないうえ、本部の敷地内にあるこの建物だが、あたしが完全にプライベートでいられる貴重な場所だった。
ここに連れてこられた10年前は、落ち着くことが出来なかった。しかし、今はすっかりこの場所で過ごすことに慣れてしまった。逆にこの場所を出て、どこかで暮らす自分が想像できない。
部屋に入り、まずはシャワーを浴びる。部屋着に着替えて、部屋の隅にあるパイプベッドの前に立った途端、急激に疲労を感じた。
それでも、スマホを取り出し、彼の番号をコールする。あたしの彼、千田リュウジ。リュウさんは同じ建物、2階の左端に住んでいる。
「あいつの正体掴めそうか」
リュウさんは開口一番尋ねてきた。彼はいつも単刀直入。面倒な前置きなどは必要ないらしい。
あたしは、先ほど起こった出来事を彼に話した。
対象者である高垣翔は、あたしがTNTの人間だと知っている。それなのに、何故か秘書になれと告げられた。その方が監視しやすいから、秘書の話は受けたことなどを手短に説明する。
「レイラ、気を付けろ。油断するなよ。それと」
彼の低い声が少しの間を置いた。
「あとで、部屋に行く」
「……うん、わかった」
思わず顔がにやける。リュウさんが部屋に来るの久しぶりだなぁ。先ほどの疲れも忘れ、徐に部屋の掃除を始めた。
10年前リュウさんに保護されたあたしはしばらく病院にいた。色々な検査をして、脳に損傷もなく他の異常がないと分かっても、あたしの身元は分からなかった。
とりあえずは、胸に下げていたシルバーペンダントに記されていた『レイラ』を名乗った。年齢も不明。18歳を過ぎているかどうかも分からないので児童養護施設に入ることも出来ない。
鏡を見せられても、自分の顔がこうだったかも思い出せない。医師は「大きな精神的ストレスや、心的外傷が原因となって記憶を失ったのではないか」と結論付けた。一般的な知識や単語は覚えていて、日常生活に支障はなかったが住む所もない。
これも何かの縁だと、リュウさんや班長の提案で、警察本部裏にある宿舎に住まわせてもらった。
同じ建物内に住むリュウさんは、頻繁に様子を見に来てくれた。
とは言え、彼は無口だ。未だに何を考えているか分からない時もある。宿舎に住み始めた最初のうちは、ドアを開けると『大丈夫か』の一言だけで、あたしが何も答えないうちに帰ったり、アンから預かったと紙袋に入った新しい洋服や下着を持ってきてくれたり、トウリからだと食料の入ったスーパーの袋を押し付けて帰っていった。
頻繁に来る割には、愛想のない人だなと思っていた。
それでも、何も分からず、情緒不安定になることが多いあたしに、時々はじっくり付き合ってくれて、自分の生い立ちを話してくれたり、慰めてくれたりする日もあった。
リュウさんは赤ん坊の時、病院の玄関前に置かれていたらしい。だから、彼も両親の顔を知らない。彼はずっと孤独だった、頼る大人がほとんどいない状態で、ずっと生きてきたと話してくれた。
「あたしと同じだね」
ひとしきり彼の話を聞いて言った。
「は?」
リュウさんは怪訝な顔であたしを見た。
「ないものばかり。あたしと同じだ」
「そうだな」
そう言って、リュウさんはあたしの頭をくしゃりと撫でた。
乳児院と児童養護施設で育った彼を、エイジ班長がスカウトしてTNTに入ったらしい。ちなみにリュウさんの苗字、千田も班長がチーターのようだからと勝手に決めたようだ。
リュウさんは子供の頃から頭が良かった。そして何より喧嘩がめっぽう強く、街を歩くガラの悪い不良たちでもさえ、彼を見かけると避けていた。その辺は今と変わらない。と、リュウさんと同じ児童養護施設出身のアンは言っていた。
確かにリュウさんに睨まれると、たいていの人はたじろいで何も言えない。
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