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記憶のないあたしが唯一信頼できたのは、あの廃屋で見つけてくれたリュウさんだった。あの時、躊躇せずひょいとあたしの身体を抱き上げて、綺麗な空を見せてくれた彼。どこまでも続く深い青色の記憶は、空っぽだったあたしの中に今でも残っている。
はじめは保護者のようだったリュウさんは、次第にお兄ちゃんのような存在に変わった。そして、気がつけば、あたしは彼に心を奪われていた。彼はあたしにとって大切な人になっていた。
「あたし、リュウさんが好きなんだと思う。これって愛かな」
リュウさんへの想いに気が付き、日々悩んでいたあたしはある日、アンに相談した。彼女はあたしの顔をじっと見つめて、
「それってインプリンティング、刷り込み効果じゃない? 記憶のない状態で初めて会ったリュウジを、パパだと思っているみたいな。私は愛じゃないと思うけどねぇ。ほら、記憶がない空っぽの状態で、親切にされたから依存しているだけとか。こんな特殊な環境で頼りになる存在だから、特別に想っているだけとか」と色々と持論を述べた後、一笑に付した。
確かに最初はそうだったかもしれない。リュウさんは空っぽのあたしに色々与えてくれた大切な人だ。任務中、頼りになる仲間であることには間違いない。けれど、時が経つにつれ、そうじゃない気持ちがあった。彼の真剣な眼差しに心臓がキュッとなるのは何故だろう。抱きしめてもらいたいと思うのは何故だろう。滅多に笑わない彼がふと笑顔のようなものを見せた時、あたしの心臓がドキリと音を立てるのは何故だろう。ずっと一緒にいたいと思うのはどうして?
『愛とは心理学・生物学的にそれぞれ定義が違うが、結局は脳内物質の放出量による。恋愛初期にはアドレナリン、ノルエピネフリン、ドーパミンが大量に放出される』
ふと脳裏にそんな言葉が過った。リュウさんを思った時、あたしの脳内には、それらの脳内物質が大量に放出されている。それだけは分かった。
あたしは何故だか、保護された時から人並み外れた頭脳と身体能力を持っていた。そんな身体能力を見込んで、エイジ班長が特別任務捜査班の仲間に入れてくれた。
大好きなリュウさんの傍にいたかったので、喜んでメンバーになった。アンもトウリも快く仲間に加えてくれた。リュウさんは銃の使い方や、敵との戦法など様々な事を教えてくれた。あたしがここまで強くなったのは彼のおかげだ。
けれど、彼は相変わらずあたしのことを妹みたいに扱っていた。この気持ちをリュウさんにぶつけたいのに、もし拒絶されたらと思ったら怖い。明らかに自分を子供扱いしているリュウさんに、気持ちなんて伝えられない日々が続いた。
あれは桜が満開に咲いていた頃の話。退屈をしていたあたしが、どこかに行きたいと非番のリュウさんにせがむと、近くの城山に連れてきてくれた。彼はTシャツの上に白いシャツを羽織り、デニムとラフな格好だ。いつも見慣れた制服姿でも真っ黒いスーツ姿でもない姿が新鮮で、いつも以上にドキドキした。
山の上にそびえ立つ城の周囲には桜の花が咲き乱れていた。城の天守閣を、満開の桜が彩っている。大勢の人が、木の下で写真を撮ったり、ビニールシートを広げて食事をしている。その様子をテレビカメラが取材していた。
桜を眺めながらしばらく歩いていると、リュウさんがふと足を止めた。目の前には老木がある。その地面に、桜の花びらの絨毯が広がっていた。花びらが敷いたピンクの絨毯が眩しかった。
「どうだ、少しは気分転換できたか」
桜とはこんなに綺麗なものだったのか。もしかしたら記憶を無くす前のあたしは、桜を見た事がなかったのかもしれない。保護された先の病院で、草木の写真を見せられた時、桜の名前は知っていた。ほかの植物の名前も答えることが出来た。けれど、桜がこんなに綺麗だったなんて知らなかった。あたしが覚えている桜は、まるで図鑑の一部のようだった。
「こんなに綺麗なさくらを見たのは初めて。リュウさん、ありがとう。大好きだよ」
強い風が吹き、花びらが宙を舞う。あまりの美しさに息を飲んだ。桜があたしの気持ちを後押ししてくれているような気がした。あたしはまっすぐにリュウさんを見つめる。
「あの、あのね。あたし、リュウさんの事ずっと大好きだった。でも言えなくて。あたし、リュウさんの妹じゃなくて、恋人になりたい……だめかな」
どさくさに紛れて告白してみた。無表情だったリュウさんが険しい顔をする。言ってはいけなかった。どうしよう。嫌われる。いたたまれなくて、思わず俯いた次の瞬間、突然、彼の胸元に引き込まれた。あたしは白いシャツに顔を埋める。リュウさんの匂いがする。
「俺も、お前が好きだ。レイラ」
耳元に響く低い声。とくとくと、少し早い心臓の音。彼の身体の温かさ。しっかりと自分を引き寄せる強い腕が、その腕のもたらす拘束が安堵を生んだ。顔を上げると、彼と目が合った。鋭い視線に捉えられる。
「お前がどこの誰であろうと、俺はこの先、お前を離す気はない」
あたしは一度目を閉じて、しっかり彼を見つめなおした。
「リュウさん……」
「冷えてきた。そろそろ帰るぞ」
身体を離し、彼は先を歩き始めた。あたしは慌てて追いかけて、彼の腕にしがみつく。
「もう少し、一緒にいたい」
「おい」
リュウさんは咎めるような表情で眉を顰める。
「あたし、リュウさんと一緒にいたい。お願い」はっきり告げた。
「……わかった」
そして、あたしたちは男女の関係になった。
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