鼻のこわれた料理人 その3

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鼻のこわれた料理人 その3

「あのさ、それ本当のはなし? 」  詰めていた息をもらした里津は、雅人の顔をまじまじと見た。 「本当だよ、作り話にしては手が込み過ぎだろ」  運ばれてきたつくねを齧った。つくねにはしその葉が混ぜ込んであり、塩味だ。 「そのときに見た朝陽は忘れられないな。死ぬ気なんてすっかり失せてた。それから日本に帰って、大学に入って、そのあいだに仕事もはじめたんだ。僕の仕事はパソコンがあればどこでも出来るから、いろんな国で仕事をした。だけどね、最近思ったんだ。ひとつのところに止まって仕事をしてみたいな、って。それと、人に囲まれながら仕事をしたいなって。そんなときに、使っていない古い喫茶店を見つけたんだ。すごく良い雰囲気の店なんだ。コーヒーや紅茶を淹れるのは自分で出来るけど、料理は無理だから、それを里津に頼みたい」  雅人の話しに里津はどんどん引き込まれていった。その良い雰囲気の喫茶店を見てみたい、という気持ちになっていた。 「本気だよ、本気で言ってるんだ。お願いします」  里津は急におかしくなって笑い出した。 「なんで笑うんだよ、そんなにおかしいかな」  雅人も笑いながら熱燗を頼んだ。すぐに、錫製のちろりとぐい吞みがふたつ、目の前に置かれた。ひとしきり笑ったあとで、ふわっと湯気のたつ日本酒をぐい吞みに注いだ。里津はぐい吞みを見つめながら言った。 「僕があのレストランを辞めた理由も、飯島さんから聞いているよね。今の僕には料理を作ることは出来ないよ」 「匂いがしない、ってことだろう。そんなこと、どうってことないよ。里津なら出来る」  そんなことどうってことない、と言うが、里津にとっては重大問題だ。もちろん、彼がわざとそう言っているのではないこともわかっている。だが、自分の弱点を思い切り突かれると、腹立たしいし、悲しくもなった。 「この焼き鳥の味、どれも美味しいことは知ってる。だけど、その美味しさは全然わからない。この日本酒の香りだって、全くしないんだ。匂いがしないってことは、味もわからないってことだ。料理をつくったところで、安定した味はつくれないよ。そんなのを店に出すわけにはいかない」  里津は情けない気持ちで言った。目に染みる煙の匂い、肉が焼けるときの香ばしい匂い、たれの甘辛い匂い、燗された純米酒のしっかりと味の整った香り、何もかも感じることが出来ない。里津の匂いは、記憶の中にしかなかった。それを思い出すのは、虚しいだけだった。口に含んでみた日本酒は、舌先がひりひりするだけの、ただのアルコールに過ぎなかった。 その隣で、そっかあ、と雅人は熱燗をあおった。彼は腕組をして、しばらく考え事をしてから、思い立ったように言った。 「僕が味見をすればいいんだよ」 「えっ? 」 「これまでの里津の経験と腕があれば、ほぼ問題なく料理は作ることが出来る。最後に僕が確認してから店に出せばいい。料理の決め手は塩味だよね。しょっぱいか、しょっぱくないか。甘みや苦みや旨味は素材の問題。素材は良いものを選んで欲しい。良い材料を使えば良いものが出来る。それはどんなことにも共通している。大丈夫だよ、僕は絶対味覚の持ち主だからさ」  雅人は晴れやかな顔で言った。 「絶対味覚なんて、あるわけないじゃないか」  里津は苛立っていたが、雅人の言っていることは間違っていない。その本質をわかっている。しかし、その自信満々な様子が、里津には腹立たしく、妬ましかった。唯一の特技を失った気でいる自分が、なおさら惨めだった。 「今の君は匂いと味を感じない、という現実がある。それを僕がカバーする、それだけのことだよ。メニューはあまり多くしたくない。なんでもかんでも出てくる店にはしたくないんだ。美味しいサンドイッチ、パスタ、グラタン、ピザ、プリン、焼き菓子なんかがいいね、カレーライスはだめだよ。あれはすごく好きなんだけど、匂いが強いからね。コーヒーや紅茶の香りと混ざり合っちゃうとよくないよ。カレーはさ、よその店で食べることにするとして、スープとサラダも必要だね。そんな感じかな」  雅人はいとも簡単にさらりと言う。店をつくるなんてことは一大事業だ。そんな大事なことに、匂いも味もしない料理人を雇おうなんて、頭がおかしいんじゃないかと疑いたくもなった。しかし、その口調は穏やかさが絶えることはなく、押しつけがましくなく、どこか捉えどころがないように思えても、意思の弱さを感じさせるでもなかった。  彼には、里津がもっとも欠けている、自信、というのがあった。 「少し考えたい」 「断るつもりでそう答えたね。明日まで待つよ、それ以上は待たない。里津が断ったら店は諦める。残念だけど……だけど、すごく良い感じの店なんだ」  雅人の目はすでに確信を得ているような輝きがあった。それを見ると、余計に断りたくなった。同じ年の彼らは、話題も共通するものが多いし、趣味もどことなく似ていた。好きな音楽とか、これまで観てきた映画とか。友人にするなら完璧だな、と里津は思った。けれど、いまの里津にとっては自分を惨めにさせる人物でしかなかった。  二人は焼き鳥屋の前で別れた。里津は雅人の背中を少しだけ見送った。まっすぐに伸びた背中だった。そのあと焼き鳥屋の、のれんを見た。ほど良く汚れの浮いたのれんだ。のれんは汚れ過ぎても、きれい過ぎても良くない、と里津は思っていた。実際、良い店だ。活気と明るさがあり、メニューもひとつひとつがはっきりとした輪郭があった。  匂いと味がわかっていたら、とても楽しい夜になったはずだった。今後の参考になることもたくさんあっただろう。だが今夜の食事は、彼の記憶には何ひとつ蓄積するものはなかった。里津は苦い思いでその場を去った。
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