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鼻のこわれた料理人 その2
子供の頃から好き嫌いはほとんどなかったけど、ラーメンだけは嫌いだった。あの麺がクネクネ曲がった感じとか、匂いとか、スープの醤油と油が混ざった感じとか、シナチクの歯触りとか、何もかも嫌いだった」
「ラーメンが嫌いって、珍しいね」
「うん、そうだね。だけど、人参とかピーマンとか、ナスとか、そういう好き嫌いは許されないけど、ラーメンが嫌いでも親は何も言わなかったね。だから、ずっと食べたことがなかったんだ」
ミョウガとオクラがのった冷や奴には、柚子胡椒が添えられていた。ひんやりとした豆腐が喉をするりと通っていく感覚は、気持ちが良かった。
「小学校の給食の時間に、ラーメンが出たよね。そういうときはどうしてたの? 」
好きでも嫌いでもなかった学校の給食を思い出した。熱くも冷たくもなく、柔らかくも固くもなく、美味しくも不味くもなかった給食。里津の思い出にある給食はそんなものだった。
「残してたよ。母親が事前に、伝えておいたんだ。この子はラーメンだけは食べられません。アレルギーがあるんですって」
「ラーメンにアレルギーってあるの? 」
里津は少しだけ興味を持った。
「ないよ。小麦アレルギーっていうのはあるけど、うどんとかそばは食べてたからね。ラーメンアレルギーって言われて、学校はすんなり信じたんだと思うよ。それか、面倒くさかったんじゃないの」
「ラーメンアレルギーって、なかなかリアリティあるよ」
「もしかしたら、本当にラーメンアレルギーなのかもしれない。そうだよ、ラーメンアレルギーなんだよ」
雅人は妙に納得した顔でグラスを飲み干した。瓶は空になった。次にハイボールを注文した。
「学年が上がっていくと、担任もクラスも変わって、僕のラーメン嫌いのことを気に止める人間がいなくなった。それである日の給食のときに、ラーメンが僕の前に置かれたんだ。ラーメンの熱い湯気がぶわあーって顔にかかってさ、くらくらしたよ」
里津は危うくビールを吹きだすところだった。店はすでに満席になっていた。カウンターの向こうの焼き台では、串焼きのほかに、味噌をぬった焼きおにぎりが並んでいるのが見えた。
「それでラーメンはどうしたの? 」
「食べたんだ。なんでかしらないけど、ずずって、啜ったんだ。だってクラスのみんながラーメン啜るんだよ。すごい音がするんだ。多分、あの音につられちゃったんだろうな。無意識のうちに啜っちゃったんだよ」
あの四角い教室に整然と並んだ机で、生徒たちが一斉にラーメンを啜る、そんな様子を想像した里津は、ちょっとぞくっとした。
雅人はハイボールを飲んで、冷や奴をつついた。が、ふとその手を止めた。
「ちょっと汚い話になるけどさ、そのラーメンを半分くらいかな、啜ったところで、ものすごく気分が悪くなっちゃったんだ。だって、それまで嫌いでずっと食べなかったものをさ、勢いよく啜ったんだから」
それで? と里津も箸を置いた。
「今度はそれを全部吐いちゃったんだ。自分の机の上にね。クラス中の全員がひいたよね。教室がしんとなったよ。あの静けさは、今もはっきりと覚えてる。その中で担任の先生がバケツと雑巾をもってきた。そして雑巾を僕に手渡して、ここに入れなさい、って吐いたものを指さして言ったんだ。僕は雑巾でバケツの中に机にひろがったのを、かき集めながら入れた。それが終わると、先生はそのバケツを自分で持つように言って、ついてきなさいって、トイレに向かって歩き出したんだ。当然トイレには誰もいなかった。先生は、そこに捨てないさい、って言った。僕は言われたとおりに、その吐いたのをトイレに流した。今度はこれを洗いなさい、って汚れた雑巾を洗った。先生はそれをじっと見ていた。あの命令口調とあの表情は、なんていうのかな、人間を扱うような感じじゃなかったな」
「それ、かなりひどいね」
「だろう? そのときの担任の先生の顔は今でも覚えてるよ。男だった。名前は小杉って言ったな。あの頃はうるさいこと言う親もいなかったからね。今ならいじめ? 虐待? 教育委員会ものだね」
雅人はそう言いながら笑って、再び箸をとった。
「当然、それからはクラスでからかわれるようになった。いま思えばたいしたことないのに、当時は重大だったから」
いじめや無視は、十年ほどしか人生経験のない者にとっては、本当に重大で辛く苦しいことだ。しかし、実際はそのあとの人生の方がずっと長くて、多くの経験をすることになる。大人からすれば、そんなことはたいしたことがないと思われるのがおちだ。子供からすれば、どうこうして欲しいというよりも、わかって欲しいだけ。自分の状況をしっかりと受け止めて欲しい、ただそれだけだ。
「それから学校へは行けなくなった。行こうとするとめまいがしたし、夜は眠れなくなったし、人前に出られなくなった。病院に通ったり、薬を飲んだりしても全然だめだった。それでもなんとか中学高校はフリースクールに行った。そこは、行きたいときにだけ行けばいい、っていう学校だったから。実際はほとんど行ってなかったけどね」
里津が少し神妙な顔になったことに、雅人は気づいた。
「ごめん、食事中にするような話しじゃなかったね。今はもう笑い話しだから」
そう言いながら、つくねと膝なんこつを頼んだ。
「じゃあ本当に面白い話しをするね。十八歳のとき、本当に何もかも嫌になって、海外に旅に出たんだ。誰も知らないところで死のうと決めた。だけど、いざ言葉も場所も何もわからないところに行ったら、必死になるんだよ。食べるものを手に入れるのも、寝るところを探すのも、バスに乗るもの、身振り手振りでなんとかしようとするんだ。死ぬためにわざわざ行ったのに、なぜか生きるのに懸命になるんだ」
雅人は遠い目をして、そのときのことを語り続けた。
「あるとき、お腹が空いて何か食べようと思って、店を探して歩いてた。急に、知らない男女に呼び止められたんだ。英語なんてさっぱりわからないから、彼らに近づいていったら、そのまま車に押し込まれたんだ。目隠しをされて手を縛られて、後ろのシートに転がされた。車は走り出した。その間も、女はわめいていて、男は怒鳴り散らしていた。言葉がわからないと、余計に怖くなるんだ。恐怖に震えるって、このとき初めて体験したよ。歯はガチガチ音をたてるし、全身の毛が逆立った。あるときから、ガタガタ道の道路になって、それが延々と続いた。ああもうだめだ、死ぬんだ。本当に死ぬんだなって。もっとちゃんと生きて、いろんなことやっておけば良かった。いったい何やってたんだ。ホント馬鹿だった、両親にも申し訳ないし、会って謝りたい、ありがとうって言いたい。泣いたね、あんなに泣いたことは後にも先にもないよ」
里津は雅人の話しにすっかり聞き入った。彼とは同じ年齢でも、経験してきたことが全く違っていた。彼のことは、裕福な家庭でお金に苦労のしたこともなく、ちゃんとした学歴で、自分のやりたいことを仕事にして、それも上手くいっている。順風満帆、それが彼のイメージだった。恵まれた人生を送っている男、と思い込んでいた。
「急に車が止まった。前にいる二人が車を降りるとすぐに、僕は座席から引きずり降ろされた。目隠しを外されたときは、もう真っ暗になっていて、周りはほとんど見えなかったけど、山の中だってことはわかった。そこで手を縛っていたロープは解かれた。かわりに、シャベルを渡されたんだ。男はずっと怒鳴っていて、何を言ってるのか全然わからないんだけど、そこに穴を掘れ、って言ってるのはわかった。手にはピストルを持っていた。僕はシャベルで土を掘った。少しでも手を休めると、男は怒鳴ってピストルを向けてきた。女はしゃがんで、こっちをじっと見ているのがヘッドライトに照らされていた。とにかく穴を掘り続けた。あるとき、自分の手元が明るくなっていることに気づいた。あたりには妙な静けさが漂っていた。その穴は自分の背丈と同じくらいになっていた。恐る恐る手を止めて、様子を伺った。人の気配がしなかった。穴から顔を出すと、あたりには男も女も、車もなかった。僕は穴からはい出した。リュックサックだけが、地面に転がっていた。もちろん、金もパスポートもなくなってたけどね」
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