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鼻のこわれた料理人 その1
石山通りから東に向かって歩くと、古い雑居ビルが立ち並ぶ通りに出くわす。幹線道路の雪は解けているが、一本中通りに入ると真冬とさほど変わりなく雪が積もっていた。
その焼き鳥屋の両脇にも、雪が積み上げられている。焼き鳥というのは、どうしてこうも魅力的な食べ物なのだろう。ひと口大に切った肉を串に刺して、カンカンな炭火でじゅうっと焼いたのを、齧りつくときの幸福感。それは他の食べ物にはない類のものだ。上等な肉を絶妙な火加減で焼いて、ナイフとフォークで食べるよりも、はるかに美味い。
濃紺ののれんの間からは、外に向かって煙が細く溢れ出していた。その煙は里津を誘っているようにも、拒んでいるようにも見えて、中に入るのを躊躇った。けれど、ここまで来て帰るほどの図太さも、約束をすっぽかす勇気もなかった。なぜ、簡単に約束など交わしてしまったのか、里津は自分に嫌気がさした。
昨夜、雅人から連絡がきた。電話の声だけでは、最初は誰だかわからなかった。彼の声は警戒させるものがなく、朗らかで温かく、耳の中にすんなりと入ってきた。その声をきいているうちに、久しぶりに誰かと食事をしたり、お酒を飲んでみたくなった。それも昔から知っている友人や知人ではなく、あまり知らない人間がいい。雅人はそういう相手として、まさにぴったりだった。
少なくとも、昨夜はそう思った。昼間だったら断ったかもしれない。深い夜は、人恋しいような気分にさせるのを、雅人は知っていたのだろう。誘い上手な人はいる。断られたとしても、そこに執着もしない。彼に対してそういう印象を持った。
雅人と待ち合せをした焼き鳥屋は、すぐに満席になってしまう人気店だ。時計を見ると、約束の時間を三分ほど過ぎていた。たった三分、だけど三分、そんなことをぶつぶつ思いながら、のれんをくぐった。
中に入ると、いらっしゃい、と焼き鳥の串を素早い手つきで操っている大将が声をかけてきた。里津は軽く会釈をすると、すでにカウンター席についていた雅人に気づいた。席はほぼ埋まっている。
里津が席に着くかつかないうちに、ビールでいい? と聞いてきた。雅人は女将に瓶ビールを頼むと、すぐに赤星のビールとグラスが出てきた。
「ここ、すぐにわかった? 」
「一度来たことがあります」
雅人はグラスにビールを注いだ。
「そう、はい、乾杯」
グラスが軽くぶつかった。雅人は相当喉が渇いていたらしく、一気に飲み干した。お通しは、茹でたキャベツとささ身の辛し和えだった。ささ身は絶妙なレア加減で、食べなくても抜群の鮮度であることがわかる。
雅人はグラスを置くと、言った。
「早速だけど、単刀直入に言うね。僕の店で料理を作って欲しいんだ」
えっ? 雅人は里津が匂いを感じなくなったことを、知っているはずだ。そんな自分に、料理を作れって? 変な冗談はやめて欲しい。そんな冗談に巻き込まれるために、ここにやってきたわけではなかった。
「とにかく、酔っぱらう前にこれを伝えておきたかったんだ」
雅人は残っていたビールをグラスに注いだ。実に美味しそうな飲み方をする。僕の店って、いったいどういうことなのか。彼が店の経営者だという話しは、きいたことがなかった。
ついさっきシャワーを浴びたのだろうか。髪の毛の先っぽがまだ乾ききっていないが、それが彼の清潔感を増しているように見えた。里津は自分が女の子だったら、すぐに好きになってしまうだろう、と思った。
白いTシャツにジーンズ、アディダスのスニーカーというスタイルは、とても新鮮だった。これまで見てきた雅人は、仕立ての良いスーツかジャケットに、よく磨かれた靴を履いていた。もちろん、腕には高そうな時計が光っていた。彼がどんな仕事をしているのかは知らないが、サラリーマンではなさそうだ。医者とか弁護士ではなさそうだし、経営者だとしたら、かなり上手くいっている部類にちがいない、と下世話なことを考えた。
「ここのレバー食べたことある? ところでレバーは大丈夫? レバーって結構好き嫌いあるよね」
「とくにないけど、たまに食べるよ」
「じゃあここのレバーは食べてみてよ、おすすめだから」
彼は真剣な表情で言った。レバーに対しての強い思いが感じられて、里津もその串を手に取った。
タレ付きのレバ串は、切り口にしっかり焦げ目がついている。強い火力で表面を一気に焼いて、旨味を閉じ込める。その内側は、レアの状態であることが想像できた。実際、熱々のそれを齧ってみると、思った通りに薄っすら赤くて、てらてらと光っていた。カリっとした歯触りのあとには、滑らかな舌触りは口中の全てにまとわりついて、それをビールで流すとすっきりとなくなった。
雅人は里津が食べるのを満足そうに見ていた。そして、二本目のビールを頼んだ。
雅人は、十日前まで里津が働いていたフレンチレストラン『シェ・イイジマ』の客だった。シェフだった里津は、挨拶をしたことがある程度だった。その彼と、こうしてビールを飲み、焼き鳥を齧っていて、僕の店を手伝ってほしい、と言われ、すっかり落ち着きを失う里津だった。
仕事は欲しい。無職の彼は、仕事を探しているところだ。
「レバーって、子供の頃のおやつなんだ。母親と買い物に行った帰り道に、焼き鳥の屋台があったんだ。そこでレバ串と鶏皮を一本ずつ買ってもらって、それを帰り道歩きながら食べる。はじめはタレがたっぷりついたレバーを、帰り道の半分まで少しずつ食べていく。その半分っていうのは耳鼻科の病院の前までで、そのあとは塩の鶏皮かじる。鶏皮って噛み切りにくいから、レバーよりもながい時間味わっていられるんだ。家の玄関についても、口の中にはまだ鶏皮が残ってたな。行儀とか、しつけとか、厳しい母親だったけど、唯一許された買い食いだった」
そこに、鶏皮とハツが置かれた。香ばしい色に焼けた鶏皮は塩味で、ハツはたれに辛子が添えてあった。
「レバーは思い出の味なんですね」
雅人が鶏皮をバリバリと齧る音が、里津の耳に心地よく響いた。
「君にはあるの? 思い出の味って」
「ないですよ」
里津は即答だった。それが雅人を笑わせた。
「いいね、やっぱり思った通りだ。食べること、食べ物にあまり思い入れがないっていうところ。そういうところがいい。君、あっ、里津って呼んでもいい? 僕のことは雅人で」
思い入れがない、確かにそういうところもある。が、十年料理人をした、という小さなプライドをつつかれて、複雑な思いになった。
「飯島さんからきいたよ。君の連絡先をなかなか教えてくれなくてさ、三日連続でレストランに通って、ようやく教えてくれたんだよ。飯島さんってさ、結構意地悪だよね、もうあの店には行きたくないな」
里津はクスっと笑った。飯島さんは『シェ・イイジマ』のオーナーでもあり総シェフでもあった。里津は調理師の専門学校を卒業した二十歳のときから、そこで十年働いた。
「性格の良いオーナーシェフなんて、いないんじゃないかな」
「そりゃそうだ。飯島さんの店には何度も通ったけど、あれは仕事のつきあいだからさ。ああいう店って喜ぶ人が多いんだ。僕は本当のことを言うと、あんまり好きじゃないけどね。料理に無理して遊び心をだそうとするところが、苦手なんだ」
「僕は遊び心がないけどね」
自分の不機嫌さを抑えながら答えた。
「里津のつくるスープはすごく良かったよ。良い料理人だな、って思った。そのとき挨拶したの覚えてないの? 」
挨拶をしたお客の顔はいちいち覚えていなかった。それにあの店で働いていたことは、今は思い出したくない。雅人はそれを察したように、全く別の話しをし始めた。
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