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雨に流れた本音
初夏の天候は秋程ではないが、移ろいやすいもので。
さっきまでは快晴だった空も、今では黒を強めとした灰色。
青をすっぽり覆い隠したそれは、育児に奮闘するひとりの男と、その子供達の気力を大いに下げた。
「朝陽、朝陽ー!」
「おっ、どうしたよ?」
「みんなでてるてる坊主作っていーい?」
「お、いいな。俺も作ろうかねぇ〜……」
本堂ではしゃぐ九人の子供達も、さすがに二時間も動き回っていたら疲れたらしい。
不器用な円を描いた円座の中心に散りばめられた多量のちり紙と筆。「てぇ〜る坊主、てる坊主〜」の、幼く愉快な旋律に乗せながら描かれる表情は、目に弧を描いたものばかり。
それを見、いつも以上に垂れ下がる朝陽の目尻。
けれど、その朱眼が外の風景を捉えた瞬間、ぱちくりと。
その尻を引き釣らされた。
(何してんだ、アイツ……)
ただただ灰に染まり行く空。薄黒になり行く雲を、青色の瞳に吸い込むように見上げる女。
表情は相も変わず虚。微動だにせずそうしてる姿は不気味なようで、儚くもあって。
「おーい、風邪引くぞ!」
居ても立ってもいられず、掠れた低声を彼女に届ける。
だが、いつもの様に無反応。朝陽の心配は無視と言う形で遮断されてしまったようだ。
「降りだしそうだしさ……、雨」
冷めた態度に怯む様な事こそ無くなったが、やっぱり。
掴めなくて、かといって下手に踏み込んでしまうと、行き場なくして崩れ落ちてしまいそう。そんな脆い彼女に、どう声をかけていいか解らない。
一般的な気遣いは毎度、敬遠されては空回り。言葉だけじゃ彼女の素性は引き出せない。気持ちを繋げないばかりか、触れられらない。
「あ……、」
縁側で立ち尽くす朝陽の目の前を急降下した一滴。
それにつられ、落とした視線。水滴が地面をぽつぽつと湿らせていき、瞬く間に屋根を太鼓にした雨雲。大雨が、彼女の身体を濡れ鼠にしていく。
金色の長い髪が絶え間なく雫を溢し続け、艶を演出してる気がした。けれど、それに朝陽の色目が働く事はなく。
「ーー……っ、」
しかし、言葉が出ない。声が掛けられない。
何を言おうが、目の前で濡れていく女が既に闇底に溺れ切っている事を知っていたから。
例え手を差し伸べても届かない、触れられない距離にいるのかもしれない。
溺れ、藻掻き苦しんでいる人間ならば、まだ救いようがある。
泳ぎは得意だ。自分が飛び込み、深く潜ってでも救助する位の自信もある。
けれど、彼女は感情がまるでない。故に、生死に執着もない。
ただ流れるままに、ひっそりと息をしているだけ。
深海に沈んでいるからこそ、空の暗さやずぶ濡れなんて気にならないのかも、と。
「なあ、月之宮」
それでも、伸びてしまう手。朝陽の爪先が白夜へと向かう。
太くしっかりとした指先。朝からご丁寧に整えた髪や衣服が雨雫に晒された瞬間、微かに震えた唇。
「風邪……、引きますよ」
あと一歩の距離で入れられた牽制。
眼色(青目)に相応しい冷めた視線を寄越され、彼の爪先がぴたり。止まってしまう。
「俺も言ったぞ、その台詞」
「………………」
「返すなって」
然り気無く握った腕に人間らしい体温は感じられない。合わない視線と、無を貫かれ沈黙に落ちる。
二人の耳に響くは激しい雨音と、それに負けじと騒ぐ子供達の声。
せめて、孤独を解消してやりたいのにーーと、望んで、願って、努力を向けても。寄り添うことを許してくれない。
毎日焦燥させられ、正直、不愉快の底に突き落とされる事も屡々。
「ぐしゃぐしゃ……」
「は?」
「髪の毛。ぐしゃぐしゃ……」
けれど、たまに向けられる穏やかな、棘のない表情に引きずり込まれてしまう。「顔だけ番長」なんてからかいをいれてしまうけれど、本当にこの女は可愛い。と。
走る緊張。朝陽は濡れてぐしゃぐしゃになった髪を、更に自らの手でぐしゃぐしゃにした。
滴る雫と、深い溜息。
「ぐしゃぐしゃなのは、俺の心の方な?」
「そう?」
「そう」
自分を見上げながら傾げられた首。ビー玉みたいに澄んだ目。まるで子供のような白夜の仕草や表情に、朝陽の口元が緩んでいく。
「なあ、寒くねぇ?」
「別に」
「とか言って、寒いんだろ?」
「別に」
「俺は寒いんですけど……」
「だから?」
後追いする声は勿論無く、朝陽の遣る瀬ない溜め息で会話は終了した。そうして、ずぶ濡れになっていく二人。
空を仰いだ瞳が何処か清々しくもあり、見とれてしまう。
「何ですか?」
その視線に気付いた彼女は、怪訝そうな表情で朝陽を睨む。
それを浴び、溢れた笑み。
「何でもねぇさ」
思い切り撫でれば、水滴が飛ぶ。ぐっしょりと濡れた金色の髪。不快感を忘れさせた触り心地は、きっと彼女だからこそのもの。手の平にすっぽり埋もれた後頭部。
空回りばかりの時間。だが、この仕草だけは外れを知らない。
彼女の寂寥を纏った表情が、純情を燻らせる。
ふと向けられた爪先。戸惑う朝陽を見上げた瞳は、しっとりと潤いを見せていた。
「何だよ?」
「寒くないよ」
「はい?」
「……太陽があるから」
「は?」
「ほら、」
頬に冷たい指先が触れる。20㎝以上ある身長差。懸命に伸ばされた手に、妙な愛らしさが生じる。
「ある、此処に」
「俺が太陽っすか?」
「うん。そう」
「はあ……、」
「……温かい。頬っぺた」
「そうかよ」
「温かい……」
「……そっ、」
「うん」
彼女の不可思議な言動に、毎度振り回されては、沈められ。
けれど、何故だろう。最後には、悪い気がしなくなって、つい。付き合ってしまう。呑まれてしまうのだ。
「じゃあ、もっと暖めてやりますかね」
「え、――わっ!!」
腕を捕まれ、ひょい、っと軽々しく持ち上げられた彼女の身体。子供のように片手で抱き上げられ、普通なら恥ずかしいその体制も、彼女はそうではなくて。
無邪気な笑顔の彼を見、ほんの少しだけ口元を緩める。
当の朝陽がそれに気付く事はないのだが。
「冷てぇな〜」
「……うん」
「何時までこうしてるつもりよ?」
「夏が来るまで?」
「無理。このまま連れ去ってもいいっすか?」
「何処に」
「何処がいい?」
「……何処でもいい」
「じゃ、俺の部屋な」
擦れ違ってるようで、そうじゃない。
ゆさゆさと揺られる身体が辛くて、首にしがみつけば、朝陽も確信を得たように笑って。
「雨は嫌い……、ですか?」
「ん〜……お前さんは?」
縁側の前。朝陽の足が、ゆっくりと止まる。
空に伸ばされた手。手のひらから伝う雫が、清流のように美しい。朱色の視線が、空色の瞳を追う。ゆっくり、ゆっくりと。
「絶望を彩ってくれるから……嫌いじゃない」
無表情の口から紡がれた台詞は、朝陽からしたら息が詰まりそうな一言だった。絶望に彩りなどあるのだろうか?
そもそも、生きた屍のような彼女が吐くとシャレにならない。
朝陽の表情は凍るばかりだった。踏み込めない領域、境界線。身体はこんなにも近くに在ると言うのに、思い知らされる。
密接な距離など、この女にとっては微塵の慰めにもなりゃしないのだと。
「そんな顔、しないで」
ぺたり。頬に触れた手のひら。笑ってるようで、感情を帯びない眼。朝陽は尚、表情を強張らせた。潜めた苦笑。
そんな彼に目もくれず、彼女は彼に絡み付き、小さく口を開いた。
「今は……居場所が、在るから――」
“雨……、嫌いになれるかもしれないね。”
耳元で囁かれた一言に、心が穿たれた。居場所とは、自分の事なのかと錯覚するような、そんな仕草に心が舞い上がる。
単純なのは解っている。だが、それでもいいのだと。彼女が、自分に一ミリでも心を近付けてくれたのなら。
「嫌いだよ」
白夜に浮かんだ疑問符。真ん丸の青を見つめ、朝陽は困ったような、けれどどこか得意気な微笑みを浮かべて。
「お前さんをこれ以上暗くするなら、雨は嫌いだ」
そう抱えた頭に、彼女が涙したことを朝陽は知らない。
だって、雨が流してしまったから。彼女の弱さを、本音を。
……END
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