日常

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 そうこうしているうちにクリニックの午後診が始まり、患者さんが処方箋を持って薬局へやってきた。  その応対をすることを口実に、十川先生は薬歴の入力をやめてしまう。彼女のカゴを見れば、やっぱり今日もまた数件の薬歴が残っているようだ。この人は一体いつになったら書き終えるつもりなのだろう。 「お疲れ様で~す。よろしくお願いしま~す」  17時46分。公園前店という隣町の店舗から元気な声の薬剤師がやってきた。30代半ばの彼女は名前を妹尾聡子という。  下山先生より年下で3人の子持ちで、と嫌われる条件ならたっぷり揃った人物だが、彼女は丘町店を含む近隣8店舗を統括するマネージャーの奥さんだから冷たくできないらしい。だから下山先生も「お疲れ様、妹尾先生。いつも来てくれてありがとうね」なんて愛想よく出迎えている。  妹尾先生はとても優秀で、優しくて、しかも偉そうな態度が一つもない人だから、さくらも篠原先生も慕っている。この人がいなかったら、さくらは薬局薬剤師の全員を軽蔑するところだった。  代わりの薬剤師が来たからもういいでしょ、とばかりに18時前なのに休憩室へ引っ込んでしまう十川先生にも、妹尾先生は「お疲れさまでした」と笑顔で挨拶する。これに苦言を呈すると、三倍以上の反論が返ってくると分かっているから、敢えて触れないことにしているらしい。  そして彼女が白衣に着替え終えて調剤室へやってきたところへ、下山先生が話しかけていた。 「今日もベビちゃんたちはおばあちゃんのところ?」 「そうなんですよ。お義母さんも腰痛があるから、そろそろ厳しいって言われているんですけど無理を言ってお願いしていて」  妹尾先生は苦笑を浮かべている。すでに子育ての終わった十川先生より、彼女こそが18時で帰りたいのだろうが、マネージャーである夫がそれを許してくれないらしい。この下山先生に嫌われず一緒に働ける人はしらなみ薬局の中でも数えるほどしかいないから『お前しかいなんだ、頼む!』と夫に拝み倒されて仕方なく週に二回の応援へ来てくれているのだ。マネージャーの妻というのも大変だなぁ、とさくらはつくづく思う。  自分の親ではない、しかも『腰痛が……』なんて言っているお姑さんに頭を下げて3人の幼い子どもたちを預かってもらう妹尾先生の心苦しさを、下山先生は考えたことがあるのだろうか。彼女が他者に対してもう少し広い心を持てたなら、こんなとばっちりを食らう人もいなくなるのに。 「今日も私が投薬するんで、どんどん回してくださいね」  下山先生に比べて1億倍の心の広さを持つ妹尾先生は、応援に来るたび投薬業務を自ら買って出てくれる。多分、篠原先生のカゴに薬歴が溜まっているのを案じて申し出てくれているのだろう。一人で投薬では後々薬歴が溜まってしまい困りそうなものだが、非常に優秀な彼女は投薬しつつ、わずかにできた隙間の時間で薬歴入力を済ませるから帰るまでに薬歴を残すことはない。まぁ、患者の少ない午後診だからできる技でもあるが、十川先生には爪の垢を煎じて飲んでもらいたいところだ。 「棚卸は順調ですか?」  19時過ぎ、投薬カウンターで薬歴を入力し終えた妹尾先生が、ちょうど患者さんも途切れたところだったので調剤室に入り、下山先生に話しかけていた。 「今年は薬価改正も無くて在庫の絞り方を緩めにしてるから欠品は少ないかな」  パソコン画面で薬の発注業務をしていた下山先生は、うーん、と唸ってしまった。 「でもその分数えるのは大変になるだろうし……これでも動かない薬から少しずつ数え始めているけど、やっぱり明日は時間かかるだろうなぁ」  下山先生はため息をついていた。しらなみ薬局では毎年一回、3月末に薬の棚卸を行っている。今日は3月30日だから、明日がその棚卸日。さくらも『3月31日は遅くなるかもしれないから、夜まで予定は入れないでおいてください』と事前に言い渡されている。 「何しろ、うちは初めて棚卸をするのが二人もいるんだから、とっても不安で」  下山先生が言葉の中に嫌悪感をたっぷり盛り込むものだから、投薬カウンターで自分の薬歴を入力していた篠原先生は、びくっと肩を震わせた。  さくらだって夜まで鬼婆二人と一緒に棚卸だなんて、今から不安でたまらない。患者さんの目が無い分、彼女らの陰険さはますます増大することだろう。  あまり考えたくない未来が目の前に迫ってきている。何も起こらずにすむことを祈りつつ、さくらはそっとため息を漏らすしかないのだった。
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