通達

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「何なんですか、これ?」 「厚生労働省医薬・生活衛生局総務課長から発出した通知……つまり国からの指令だよ」  題名は、調剤業務のあり方について。  内容を手早く斜め読みした下山先生が眉をひそめる。 「これって……どういうこと? 調剤は薬剤師でなくてもいいってこと?」 「そうだよ。調剤薬局での無資格調剤を認めるって話だ」  一斉に息をのむ薬剤師らと違い、さくらにはこの通達が持つ意味が分からないから、僅かに遅れて首を傾げた。 「えーっと、それはつまり、調剤を私みたいな事務員がやっても構わないってことですか??」 「うん。そういうこと」 「無理でしょ、そんなの!」  激昂した十川先生は叫び声を上げた。 「薬剤師会も情けないわね! こういう馬鹿げたことは、ちゃんと阻止してくれないとダメじゃない。何のために高い会費払ってるんだと思ってんのよ!!」 「……馬鹿げてます?」  妹尾マネージャーの口調がいつもと違うことに、興奮していた十川先生は気付かなかったらしい。顔を歪めて文句を並べ始める。 「そりゃもう。ちゃんちゃらおかしいでしょ。調剤は資格もないような人に任せられる代物じゃないもの。そんなの、できるわけが……」 「できますよ」  妹尾マネージャーはきっぱり言い切った。 「うちのようなチェーン店じゃない小規模の薬局ではお役所の目を盗んで今までもこっそりやっていて、それで何も問題が起こっていないんですから。それに病院内での無資格調剤は以前から解禁されているし、何もおかしな話じゃない」 「……」 「調剤は薬剤師にしかできないって薬剤師法に明記してあるから、薬剤師が独占していただけの話なんですよ、結局。でも、この法律ができた頃と違って、今は薬を調合するより錠剤を拾い集めることがほとんどだから、誰にでもできる……あぁそうか、お役所もようやくこの無駄な特権に気付いたんだな」  妹尾マネージャーは腹の奥から込み上げてくる感動に耐えきれなくなったのか、頬の筋肉をめいいっぱいに弛緩させた。  そして、そのままの緩みきった顔で十川先生の方を見たのだ。 「あぁ、そういえば、十川先生はこの薬局を辞めたいんですよね?」 「え……あ、あれは、言葉のあやで、別にそこまで本気って訳じゃ……」  マネージャーの目に浮かぶ嘲笑にようやく気付いた十川先生は、反射的に誤魔化すような笑みを浮かべたが、彼は「いいえ、辞めてください」とあっさり言ってのけた。 「僕、須田さんと篠原先生には残ってもらうつもりなんです。そういうことなら十川先生は辞めるんですもんね。昨日も、はっきり言いましたよね」  それから妹尾マネージャーは、浮き浮きした様子で退職に関する書類をパソコン上からダウンロードし始めた。これがつい先ほどまで鬼婆たちをなだめることに奔走していた人の姿かと、さくらは目を疑ったが、十川先生はもっと驚いていた。そして逆ギレに近い悲鳴をあげてしまう。 「な、何なのよ。こんな通達ごときで急に強気になっちゃって。バッカみたい!! 本当に私が抜けたら、この薬局は回りませんよ。分かってるんですか?!」  しかし、どれだけ叫ぼうと今の妹尾マネージャーには全く通じなかった。彼は今や晴れやかな表情を浮かべてパソコンを操作している。 「ええ、十分に分かってますとも。あなたがいる方が回らないって」 「!!」  いけしゃあしゃあと言ってのけた妹尾マネージャーは爽快すぎる笑顔で、プリントアウトしたばかりの退職関連書類を十川先生に突きつけた。 「あぁ、うちの会社としても退職したい人をいつまでも引き留めるのも申し訳ないんで、そうですね、勤務は来週末あたりまででよろしいですか?」 「あ……後で泣きついても、もう二度と働きませんからね!!」  悔しさと怒りで顔を真っ赤に染めながら書類をひったくった十川先生は、ちょうど通り道にいたさくらを突き飛ばし、休憩室へと逃げ込んでしまう。 「……ふん。調剤に薬剤師免許が不要だってんなら、時給が高いだけのうるせぇババぁなんか必要ねぇんだよ」  妹尾マネージャーが呟いた一言は側にいたさくらにはもちろん、下山先生にも十分聞こえたのだろうと思う。 「……」  彼女もまた、激しく動揺していた。これまで権勢を欲しいままにしていたお局様が、目の前で凋落したのだ。顔色を失い薄い唇をわなわなと震わせているのが、傍らにいるさくらにも十分伝わってくる。  ……この人、どうなるんだろう。まさか十川先生並みに大爆発するとか?  ひやひやしていたさくらの目の前で、下山先生はなんと信じられない態度に出た。突如ぶりっ子度をマックスにして、マネージャーにすり寄り始めたのだ。 「や、やだなぁ、妹尾くん。そんなに急に辞めさせたら労働訴訟になりかねないわよ。それに会社側だってマネージャーの権限だけで辞めるのを決めるなんて許さないんじゃないかなぁ?」  彼女が下手に出たのは、十川先生と同じように暴発すると『逆らうなら辞めろ』と宣告されるのが目に見えていたからだろう。マネージャーのつぶやきにあった『時給が高いだけのうるせぇババぁ』は自分にも当てはまることだと、不本意ながら気付いたのだ、きっと。  マネージャーは強張った笑顔の下山先生を一瞥すると、ふっと鼻で笑った。 「何も問題ないだろ。本人が辞めたいって言ってたんだぞ。あれはみんなも聞いてたよな、なぁ須田さん?」  不意に同意を求められたさくらは、その勢いに呑まれて思わず頷いてしまう。
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