通達

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「だったら何も問題無いじゃないか。さて、須田さん」  妹尾マネージャーは立ち上がると、さくらを調剤室へと連れて行った。 「今からは調剤業務もやってもらうよ。いや、難しいことじゃない。処方箋に書かれている薬を棚から探し出して数えてこのカゴへ入れるだけ。棚は50音順に並んでいるし、なんなら小学生でもできる内容だから」  妹尾マネージャーは、それから調剤のやり方について丁寧に説明してくれた。 「調剤をやっていると、湿布が1パック何枚入りかなんてことも実物を見るから楽に覚えられる。それに余計な先入観が無い分、クレストールとメバロチンを取り間違えるなんてことも無いし、むしろ調剤を事務員がやるのはいいことなんだ」 「……はい」  マネージャーの説明を受けながらも、調剤室の外にいる下山先生から向けられる目線が怖くて、さくらは顔を上げることもできないでいた。  しかしそれはいらぬ心配だった。下山先生は調剤室の中を食い入るように見つめてはいたが、その視線は生意気にも調剤業務を学んでいるさくらにではなく、妹尾マネージャーの一挙手一投足に注がれていたのだ。 「まぁ、分からないことがあったら何でも聞いて。そして、万一間違えて取っても、責任は須田さんには一切かからないから安心していいよ。最終責任は監査をした薬剤師が負うから」  よほど故意にヒートを傷つけるなどしない限り大丈夫だよ、とマネージャーは言ってくれた。間違えても責任を取らなくていいのなら、さくらも安心である。  それから彼は調剤室の奥の壁をトントンと軽く叩いた。そこはちょうど休憩室になっているのだ。 「十川先生、いつまで奥に籠もっているんですか! 辞めるにしても、今日働かないのは勤務放棄とみなして、給料を払いませんよ。それと、溜まっている薬歴だけは辞める前に全て書いてくださいね!」  壁が薄いから、マネージャーの張り上げた声は聞こえているはず。それでも十川先生は出てこなかった。お局様として権力を握っていたはずの自分がこうもあっさり切り捨てられるなんて夢にも思っていなかったから、まだ現実を受け入れられないのだ。  そんな十川先生の存在は無視し、マネージャーはてきぱきと指示を出していく。 「じゃあ、これからは下山さんが入力をしてよ」 「え?」 「その間に須田さんが薬を拾って、入力が終わったら監査と投薬。これで午後診くらいなら薬剤師が一人でも店が回るんじゃないかな。状況に応じて須田さんには入力もしてもらうけど、ダブルチェックのためにも、基本、調剤は彼女に任せるようにして」 「そんなの……混雑してきたら、この子の調剤じゃ回らないし。それに散剤や水剤なんかはやっぱり薬剤師でないとできないんだから無理……」 「ここは整形外科がメインだから、散剤や水剤なんてほとんど来ないだろ。もちろん、急いで事務員は増やすよ。ま、十川先生に払っていた給料で二人分の事務員を雇ってもお釣りが出るくらいなんだから、本社の許可なんてすぐ下りるさ」 「……」 「下山さんなら、できるよな?」  マネージャーからの最終確認には有無を言わせない圧力があった。  できなきゃ、お前もクビだな。  暗にそう言われているのは下山先生にも分かったらしい。 「……分かった」  強気な態度は完全になりを潜めてしまった。いまや牙を抜かれた獣のように従順になった彼女は、マネージャーの前でおとなしくうなずくことしかできなかったのだ。  翌朝、十川先生は仕事へ来なかった。自分がいなくてできるわけない、というのを証明したかったのかもしれない。 「今日は勤務の日なんだから、ちゃんと来てくださいよ」  始業時間を過ぎても顔を出さない十川先生に下山先生が電話をしていた。休憩室の電話でこっそり呼び出そうとしていたらしいが、たまたまさくらは物品を取りに来ていてその場に居合わせてしまったのだ。 「嫌よ。あのマネージャーが頭を下げるって言うなら別だけど!」  十川先生の声は大きいから受話器の向こうから漏れてくる。下山先生はさくらがいることを気にして声を潜め始めた。 「妹尾くんは頭なんて下げませんよ。それどころか、無断欠勤を理由に今週中にも退職させちゃうかも」 「……」 「意地張らないで最後に少しでも稼いでおいた方が……」 「なんで紹子ちゃんまで最後なんて言うのよ!! 私無しで丘町店が回るわけないのに!!」 「……とにかく、急いで来てくださいよ」  念押ししてから下山先生は受話器を置いた。  その瞬間、さくらは軽く身構えた。盗み聞きなんて趣味悪いですね、くらいのことは言われると思ったのだ。しかし下山先生はさくらに冷たい一瞥を投げかけただけでそのまま出て行ってしまった。 「……」  さくらは言葉が出てこなかった。去り際、あの下山先生が奥歯をぎゅっとかみしめて、涙をこらえているように見えたからだ。  ……これって本当に薬剤師業界がひっくり返るくらいの話なんだ。  さくらが実感として、事の重大性を認識した瞬間だった。  初めての調剤は、さすがにスムーズにはいかなかった。今まで薬棚を触ってこなかった身には、劇薬と普通薬の区分すら分からないのだ。 「須田さん、次はこれをお願いします」  処方箋の入力をしていた篠原先生は、そっとカゴの順番を入れ替えて整形外科から発行されたシップだけの処方箋をさくらに手渡してくれた。そして自分は総合病院の内科の処方を調剤しはじめる。  ちょうど監査中だった下山先生は、顔も上げていないのに、そのやりとりに気付いたらしい。 「篠原先生、須田さんには順番通りにやらせてください」 「でも……」 「いいから!!」  ヒステリックな声を上げる下山先生の剣幕に、篠原先生とさくらはびくっと震えた。十川先生は大声を上げるのが日常茶飯事だったが、下山先生が怒鳴ることは皆無だったのだ。  無言で一瞬顔を見合わせたさくらたちは、一応薬局長の指示であるわけだし、互いが持っていたカゴを入れ替える。  内科の処方箋は二枚綴りの重たい内容だった。  しかも大建中湯が一日量10gで28日分ってことは、1包2.5gで21包が一括りにされているこの束を、どれだけ取ればいいんだ??
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