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昨日の夜にマネージャーに見守られながらやってみた調剤業務はシップと痛み止めを探すくらいだったからすぐにできたが、この量で来られるとなかなか……。
「やっぱり須田さんにはこんな調剤、無理ですよね」
計算機を片手に調剤室の中を右往左往しているさくらに向かって、下山先生は冷淡な声を上げた。人を小馬鹿にしたいつもの口調……いや、そうであってくれ、という希望がそこには滲んでいるように、さくらは感じた。
それだから言ってやったのだ。
「でも、慣れればこれくらい、できる気がします」
ここがさくらの踏ん張りどころだと思った。調剤をさくらができると証明しなければ、十川先生が『やっぱり私がいなきゃ……』とまるで鬼の首でも取ったような顔で戻ってきてしまう。
「時間がかかってすみません、次からはもっと早く取るようにしますから」
さくらが言うと下山先生は憎たらしげな表情は浮かべていたものの、直接言葉にはせず、監査を終えた薬の投薬に行ってしまった。
午前診が終わった頃になって、十川先生が薬局へ顔を出した。
「どうしても体調が悪くて起き上がれなかったのよ」
「今朝はそんなこと言ってませんでしたよね」
応対する下山先生は冷淡とまでは言わないが、まるで赤の他人と話をしているような抑揚のない喋り方をしていた。
「十川先生は腹が立つから休むことになった、って私からマネージャーに伝えておきましたから」
「ええ?! なんでそんなこと言うのよ、紹子ちゃん!!」
「私はありのままを伝えただけです」
「私を見捨てるって言うの?!」
断末魔の悲鳴のような大声を上げる十川先生に、下山先生は突如逆ギレし始めた。
「十川先生はいいですよ。クビになったところで最悪、養ってくれる旦那さんがいるんだから! しかもあと数年で定年退職ですもんね。贅沢しなけりゃ今までの貯金だけで生きていけるでしょ。でも私はあと20年働かなきゃいけないんですよ!」
「それで私をクビにするのに加担したってわけ?! いい根性しているじゃない。今までさんざん可愛がってもらった恩も忘れて自分の身を守るために人を売るなんて」
十川先生も下山先生の剣幕に負けじと、目をつり上げて喚き散らす。
「バカな子ね。こんなことしたって、どうせあなたもすぐクビになるわ。自分がどれだけのことをしてきたか、分からないわけじゃないでしょ。ふん、覚えてらっしゃい」
最後には捨て台詞を吐いて出て行ったが、十川先生を引き留める者なんて誰もいなかった。ここまで見苦しい姿を晒すなんて、呆れてものが言えない。
……辞める時と働き始める時は、菓子折りの一つくらい持ってくるのが当然でしょ! 常識のない子ね!
不意に、さくらが働き始めた時に十川先生から言われた言葉を思い出した。
ただの主婦パート風情にそんなものを要求するのか、とあの時さくらは驚いたものだが、あの人は辞めるに当たって菓子折りなんて持ってこないんだろうなぁ、と思うと少しだけ笑えたのだった。
翌週、少し調剤業務に慣れてきたこともあり、さくらは「これからは私の昼休みも一時間にしてください」と下山先生に申し出た。
「今までは入力の合間にできていた仕事が、調剤をしていると溜まるんです」
これは調子に乗って言っているわけではなくて本当の話。
調剤室にずっといるものだから、レセプト関係の仕事が終わらなくて、今月は本当に苦労した。5月にはゴールデンウィークもあるわけだし、月初めのレセプト業務なんてこのままでは絶対終わらない。
「……妹尾くんに相談してみます」
下山先生は渋々という雰囲気ではあったが、文句も言わずに頷いてくれた。
やはり、これまでだったら冷笑で終わるはずの会話がトーンダウンしている。
養ってくれる人のいない43歳の独身女にとって、仕事がなくなるかもしれない恐怖は、並大抵のことではないようだ。
覚えてらっしゃい、と言っていた十川先生からの仕返しなのか、先日「匿名の通報を受けたもので」と保健所から抜き打ちの立ち入り調査が入り、業務のあれこれに注意を受けたのも、彼女としては大きなダメージだったらしい。
保健所に睨まれるようなできない薬剤師のレッテルを貼られたら、クビを切られてしまう、と焦ったようだ。だからこそ、せめて部下とのいざこざは回避しよう、と考え、さくらの申し出を受け入れる気になったのだろう。
この日は篠原先生がお休みで、代わりに妹尾先生が午前診の間だけ応援に来てくれていたのだが、さすがの下山先生も手の空いた時間に、気の弱い愚痴を漏らしていた。
「ゴールデンウィークは休みたきゃ休んでいいよ、って昨日、あなたの旦那に言われたわよ」
「あら……」
「『人手は足りているし、下山さんがいない方が応援依頼もかけやすいからね』だって。ひどい言い方でしょ」
怒っているはずなのに、下山先生の声には張りがない。
気のいい妹尾先生は、夫の非礼に対し申し訳なさげな表情を浮かべ、そして励ますように言った。
「いっそ、長期休暇を取ってリフレッシュしてくるってのも、いいんじゃないですか?」
「そんなの無理よ。これから仕事がどうなるかも分からない時に散財できないし」
下山先生は深すぎるため息を漏らした。
「あーあ、どうしてこんなことになっちゃったのかしら」
その弱り切った姿には思わず同情してしまいそうだが、生憎とさくらはこれまでの下山先生の姿も見てきてしまっている。
「私はね、生活の安定を目指して薬剤師になったのよ。そのために一生懸命勉強して、地味にコツコツ、真面目に働き続けて。それなのに今になって手のひらを返したようにこの仕打ちじゃ……もう生きていく気力もなくなっちゃうわ」
「あぁ、下山先生ってメンタル弱いんですもんね」
悲劇のヒロイン張りの表情に耐え切れなくなり、思わず口をついて出てしまったさくらの感想は、調剤室の中に気まずい沈黙を招いて終わったのだった。
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