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しらなみ薬局丘町店は地元商店街の中にある小規模の薬局で、すぐ隣にある整形外科クリニックからの処方箋を主に受けている。それに加えて表通りにある総合病院からの処方箋もちらほらやってくるから、平日の午前中はクリニックの休診日である木曜日以外は、いつも忙しい。
午後1時過ぎ、クリニックが昼休憩に入ったのを確認したら薬局も休憩するが、病院と違って薬局は完全な店じまいを許されていないからスタッフは交代で休むことになり、丘町店ルールではまず最初に下山先生と十川先生が昼休みに入ることになっている。
鬼の居ぬ間に洗濯とはまさにこのこと。この時間はさくらと篠原先生にとって、唯一リラックスできる時間になるのだ。
でも下山先生は、こんな時でも篠原先生にちゃんと仕事を与えていく。これがまた、憎たらしくなるほどちょうど1時間で終わる仕事量で、彼女が休憩から戻ってきてそれがまだ終わっていなければ『まだできてないんですか?』と嫌みを言われてしまうことになるのだ。
この1時間くらいは息抜きさせてあげるか、もしくは山のようになっている薬歴を少しでも書かせてあげればいいのに、とさくらは傍から見ていていつも思っている。
調剤室の裏にある休憩室からは下山先生と十川先生の笑い声が時折聞こえてくる。しらなみ薬局は関東近郊に40店舗ほどを抱えるチェーン店で、下山先生は二年前にその中の一つである他店舗から異動してきたらしいが、その時から二人はずっと仲良しなんだとか。きっと互いの性格の悪さに惹かれあっているのだろう。
篠原先生が今日渡されている仕事は、来週に来局予定の患者さんのための薬の作成。錠剤が呑み込めないから全て粉にしてほしい、いわゆる潰しを希望する患者さんなのだが、この薬局には他に潰しの患者さんがほとんどいないものだから、粉砕機を購入していない。つまり、薬剤師が乳鉢で地味にすりつぶしていくことになる。
これが単純作業ながら、結構な力仕事なのだ。モサプリドという錠剤なんて硬すぎて全く崩れないし。額にうっすら汗をかきながら黙々とすりつぶしている篠原先生に向かって、さくらはため息交じりに話しかけた。
「篠原先生ってよくこんなところで働けますよね」
「自分でも時々感動します」
さくらは今年29歳になったばかりで新卒の篠原先生よりも年上だから、彼は敬語で話をしてくれる。あの鬼婆たちからはけちょんけちょんに扱われているが、本当はとても心根の優しい子で、外見には少々頼りない雰囲気もあるが、決して出来が悪いわけではない。
「何もここの薬局にこだわらなくても、薬剤師さんなら他に就職先がいくらでもあるんじゃないですか?」
「でも新卒がたった一年で辞めたってなると、次の就職先を探すのにも見栄えが悪いんですよ」
「だからといって、あんなパワハラに我慢ばっかりしていると、体壊しますよ」
「大丈夫です、夕方からは妹尾先生も来てくれますから、頑張って乗り切ります」
篠原先生は小さくガッツポーズを見せてくれた。しかしその表情の弱弱しいことといったらもう……。
やっぱり草食男子にこの職場は向いてないよなぁ、とさくらはしみじみ思うのだった。
薬局の隣にある整形外科クリニックでは午後の診察が17時から始まる。薬剤師らはその間に休憩をとったり、投薬した内容をパソコンに入力したりしているが、事務員のさくらには仕事が無い。だから下山先生らの昼休みが終わった後、3時間もの休憩を言い渡されている。
自宅までは自転車で15分ばかりの距離だし、何かとやることはあるので家に帰れるのは嬉しくないわけではないが、移動時間を除いたわずか2時間半の空き時間では下手に用事を入れるわけにもいかないので、むしろこの時間も働かせてもらって給料が欲しいな、とは思っている。
さくらだって中抜けのこの時間に、薬局内での仕事が全く無いわけではないのだ。特に月末月初はレセプト関連の仕事が増えてくる。しかし下山先生は必要ない、と言う。この時間にたまに舞い込んでくる処方箋くらいならば薬剤師(機械音痴の十川先生は除く)だけでも対応できる、だから事務員など不要、その給料がもったいないと言うのだ。
しかし給料がもったいないというのなら、十川先生の勤務時間こそ無駄でしかないだろう。彼女は朝9時から夕方18時までの8時間労働だが、患者さんがやってきて薬局が忙しいのは前半の4時間ばかりなのだ。残りの4時間はお茶を飲みながら薬歴を入力して、とても優雅に過ごしておられる。さくらの倍以上の時給をもらっているくせに、よく恥ずかしくないものだ。
しかも、そんなに余裕があるのにパソコン入力が苦手だから、わずかな薬歴すら終わらせることができないで帰ってしまうのだから情けない。
「だって薬剤師は忙しいのよ。薬歴だけじゃなくて、予製を作ったり、この3月末は棚卸もあるから在庫も絞っているし、その辺の余計な業務が多すぎるんだわ」
16時55分、長すぎる休憩を終えたさくらが薬局へ戻ってきたとき、十川先生は下山先生とそんなおしゃべりに花を咲かせていた。
一応、投薬カウンター脇にある2台のノートパソコンで薬歴を入力している格好にはなっているが、彼女の太い指は全く動いていない。
「私たち、こんなにたくさん働いているんだから、会社だって時給をもっと上げてくれたらいいのに」
いやいや、これだけゆとりたっぷりに働いてるんだから、あんたの給料は下げてもいいぐらいだよ、とさくらは心の中でそっとツッコミを入れた。
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