日常

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 さくらは白衣に着替えるため薬局の奥にある休憩室へ向かったが、待合室に置いてあった雑誌がぐちゃぐちゃになっていたのが目に留まったので整理する。その際、十川先生の話し声がまた聞こえてきた。 「昔はね、勤続10年で一週間の休暇と特別手当をもらえたのよ。それが私が9年目の時に打ち切りになっちゃって。悔しいったらありゃしない」 「お休みほしいですよねぇ。私、バリ島に行きたいんですよ。インスタグラムに載ってたオーシャンビューのホテルと至極のエステプラン、一度でいいから体験したいわぁ」 「あらぁ、いいじゃないの。行ってきなさいよ」 「それが無理なんですよ。ちょっと交通の便が悪いところだから、3、4日じゃ行けなくて、やっぱり7日は欲しいかなって感じ。だから本当は今度の10連休に行くつもりだったんですけど、お隣が連休中も3日間は開けるって言うから、うちも営業しなきゃいけなくなっちゃったじゃないですかぁ」  下山先生はひどく残念そうだ。天皇陛下の代替わりに伴い、今年のゴールデンウィークは未曾有の10連休になる予定。だから旅行を考えていたらしいが、さすがにそこまで長期間で休むと患者さんの容態が不安で、整形外科クリニックの先生は中日(なかび)の診療を決めたのだ。 「あら、休みの希望くらい、とりあえず出してみたらいいじゃない。紹子ちゃん、有給溜まってるんでしょ? いつもこんなに一生懸命働いているんだもの、たまに休ませてもらうなんて当然の権利だわ」  十川先生は下山先生のことをファーストネームで呼んでいる。さくらの目には陰険な大年増でしかない彼女も、十川先生から見れば可愛い妹のような存在らしい。  そんな紹子ちゃんこと43歳の乙女、下山先生はノートパソコンの上に肘を乗せ、大きなため息をついていた。 「でも、10連休の真ん中に3日間もお休みくれますかねぇ」 「平気よ。こういうのはね、先に言った者勝ちなの。遠慮している場合じゃないわ」 「ええ~私、メンタル弱いんでぇ」  下山先生はきゃははと少女のように声を立てて笑っていた。彼女は気に入った相手の前だと年齢を忘れたぶりっ子ぶりを発揮できる人なのだ。その代わり、気に入らない相手に対してはドライアイスでできた彫刻のような顔を向けるという極端な二面性の持ち主。そう、このように―――。 「あぁ須田さん、休憩室の掃除ができていませんでしたよ。隅のゴミまできちんと取ってくださいね」  休憩室からさくらが戻ってくると、下山先生はパソコンから目も上げずに低い声で言った。 「すみませんでした」  注意を受けたさくらが掃除をし直そうと踵を返すと「もうやっておきましたけど」と冷ややかな声が背中を突き刺した。 「掃除くらい、ちゃんとやってくださいね」 「……すみません」  さくらはこの薬局に勤め始めた時からずっと下山先生に嫌われている。彼女は嫌っている相手には年下であろうと敬語を使う癖があるから、さくらの思い違いでないことはハッキリしている。  さくらが嫌われる理由は、新婚さんだから。下山先生は年下の既婚女性が大っ嫌いなのだ。これでもさくらはまだマシな方で、ここに子持ちという条件までつくと想像を絶する対応になってしまう。先日もシフトの穴を埋めるべく遠方からわざわざ丘町店へ応援にきてくれていたママさん薬剤師に対し『あなた方は子どもの発熱だとかで有給とれるからいいですよね。こっちはその分働かされてるんですけど』なんて絡み始めたのだ。言われた方の薬剤師は初対面でいきなり非難される理由が分からず目を白黒させていたが、恐らく負け犬女のひがみなのだろうとさくらは分析している。  そりゃまぁ、彼女が僻みたくなる気持ちは分からなくもない。この性格では男が寄り付かないだろう。例え彼女の表側の可愛らしい態度の方を気に入ってくれる男性が現れたとしても、その裏の顔を知った途端、誰もが尻尾を巻いて逃げ出すに決まっている。  ちなみに仕事のできない子も既婚女子並みに嫌いらしくて、篠原先生はこちらに引っかかっている。だから彼に限らず新人さんは軒並みアウトなのだ。例外として、ノリのいいワイルド系のイケメンならその風貌だけでセーフなのだが、生憎と篠原先生は彼女の好みのタイプと正反対だから全くダメ。  こんな我が儘な性格も、長い付き合いになる上の人たちは熟知しているだろうに、よくもまぁ、ここまでいじめられそうな雰囲気の新人さんを配置したよな、とさくらはむしろ感心している。  薬歴を打ち込んでいる薬剤師二人の間をすり抜け、さくらは事務員用のパソコンに腰を下ろした。薬剤師らは基本的には調剤室の中にいてくれるのだが、患者さんが居なくて薬歴を入力する間だけは、投薬カウンターで仕事をする。調剤室の中にはパソコンが一台しかないからだ。  投薬カウンターはさくらの座るイスのすぐ脇。近い距離だから絡まれたら嫌だな、と思っていたら案の定、十川先生が顔を上げた。 「須田ちゃん、今日の晩御飯は何作ってきたの?」 「今日は焼きそばを」 「やだ、超手抜きじゃん。3時間も休み時間があってそんなのしか作らないんじゃ、旦那さん逃げちゃうわよ」  十川先生はそのふくよかな体を揺らして大笑いしてきたが、他人の家の晩御飯のメニューぐらい放っておいてほしい。 「だっていくら共稼ぎって言っても銀行員な旦那さんから見れば須田ちゃんの稼ぎなんて、金魚の糞みたいなもんでしょ。せいぜいご飯くらいは頑張っておかないと」  十川先生がさくらを嫌うのには特に理由が無いようで、単に下山先生が嫌っているから一緒になってイジっているだけのようだ。  どうやら優位な立場から他人を笑うのが楽しいらしい。そんなのは性格が悪すぎて、さくらには食ってかかる気力も湧いてこない。  ……あぁ、こんな薬局、もう辞めたい。  さくらは結婚前から医療事務として総合病院で働いていた。その経験を生かしたくて、結婚後に住むことになったこの町でも医療事務の仕事を探し、その結果この薬局に就職したのだが、まさかこんなに怖い人たちがいるとは思ってもいなかった。  病院で働いていた時だって、確かに威張り腐って感じ悪い人もいたけれど、それでも複数の職種が助け合って病院を支えているのは理解しているから、他部署に対しそこまで無茶をやる人というのはいなかった。  それが薬局では一番偉いのが薬剤師で、その下が事務員、この2つの職種しかない。けん制されることのないご身分に慣らされているから、自然と傍若無人になっているのかもしれない。  でも、さくらにとってこの薬局は家から一番近いし、せめて次の就職先が見つかるまでは働きたい。家のローンもあるわけだし、そう簡単には辞められないのだ。
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