棚卸

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「……次、あんたの番よ」  あれだけ言いたい放題だったのに、全く気持ちが収まらないのか、お局様は仏頂面でさくらに言い渡した。そこで仕事を中断したさくらは「失礼します……」と、そっと戸を開けて休憩室へ入ったのだ。  出迎えてくるた妹尾マネージャーは、案の定と言うべきか、ひどく疲れ切った表情で迎えてくれる。  マネージャーは確か下山先生と同期入社の薬剤師だから、年齢は40代前半のはずだった。しかし見た目は下山先生より老けており、髪の毛が薄くて、小柄で線が細くて……いやはや、どうして薬局の男性スタッフには草食感強めの人ばかりが揃うのだろう。  さくらはとりあえずプリンを食べるように勧められたが、マネージャーが店へ来てからすでに二時間以上が経過している。手に取ったプリンはすっかり生ぬるくなっていた。  さくらはプリンのふたを開けながら「どうするんですか?」と聞いてみた。 「うん?」 「十川先生が『辞めてやる!』って言う声が、外まで聞こえてきましたけど」 「あぁ。あれは十川先生の常套手段だから、全然気にしなくていいよ」  妹尾マネージャーは苦笑を浮かべて答えた。 「ああやって言えばこっちが折れるって思っているんだ。ホント困った人だよな」  そう言って力無く微笑んだマネージャーは、それからさくらの言い分を何度もうなずきながら真剣に聞いてくれた。  しかし「須田さんも篠原先生も一生懸命働いてくれているのはちゃんと分かっている。分かっているんだ。だから、そこだけは安心して」とは繰り返して言ってくれたものの、結局何も確定的なことは言わないまま帰ってしまったのだ。とりあえず、話の流れは分かったし、あとは週末という名のインターバルを置いた方がいいと判断したのかもしれない。それに、元々棚卸をやっていた店舗のことが気になったのだろう。人手不足で困っているからこそマネージャーに来てもらっていたのに、突然抜けられてしまって、その店舗だってさぞや困り果てていることだろう。  丘町店の棚卸そのものは、拍子抜けするほど順調に終わってしまった。調剤室の空気が悪すぎて、全員私語も無しに仕事をこなしたおかげである。だからマネージャーが帰った直後に四人で薬局を出ることになった。 「お疲れさまでした」  形ばかり頭を下げて解散すると、薬剤師らは駅へ向かって歩き始める。さくらだけは自転車で通っているから一人、薬局裏へと取りに向かった。しかし自転車を押して戻ってくると、篠原先生が薬局のシャッターの前で待っていてくれたのだ。手には缶コーヒーが二本、握られている。 「なんか、すみません。僕が考え無しに突っかかったものだからこんなことになってしまって」  どうやらお詫びのしるしの缶コーヒーらしい。自分だって辛い気持ちでいるのに、他人を気遣うなんて、この人、どれだけ好青年なのだろう。 「とんでもないです。篠原先生は全然悪くないですし」  さくらはコーヒーを受け取りつつも、首を大きく横に振った。 「あれは怒るべきことだったし、いつまでもこっちが黙っていると思われたら調子に乗るから、一度ガツンとやらなきゃいけなかったんですよ」 「僕もいつか言いたいとは思っていたから、何て言おうかいろいろ考えていたつもりだったんですけど、いざってなると全然言葉にならなくて、結局マネージャーまで巻き込むような事態になってしまって」 「そりゃ仕方ないですよ。あの二人とまともにやり合って勝てるわけないです」 「そうですよね」  二人して大いに納得し、笑ってしまった。   「でも、声を上げることで何かを変えていきたいなと思ったんです」 「大切な一歩だったと思います。もしかしたら、すぐには変わっていかないかもしれないけど、それでも立ち上がってくれた篠原先生はすっごくカッコ良かったですよ」 「ありがとうございます」  篠原先生は照れくさそうに微笑んだ。 「だから間違っても、早まって仕事を辞めたりしないでくださいね」  さくらはそう言って篠原先生と別れたが、一方で念のため辞表だけは書いておこうかな、とも考えていた。  勇気を振り絞ってくれた篠原先生のためにさくらができることはそれくらいな気がしたのだ。十川先生は二人分のクビ切りを要求していたが、話の持っていき方によってはさくらのクビだけでも気が済むかもしれない。  何しろ、篠原先生は社会人一年目。将来のある男の子をこんなところで躓かせるより、主婦パートのさくらが退職する方が、被害も少ない気がするのだ。  商店街を抜けた先に桜並木がある。小さな川だが、土手に桜が植えられていて、8分咲きの今はとても綺麗。あぁそうだ、さくらが薬局を辞めようと、桜の美しさは変わらないし、世の中が終わるわけでもない。  なんとかなるさー。  さくらは空元気を出して力いっぱい自転車のペダルを踏み込んだ。  週明けの4月2日月曜日、丘町店には本来シフトに入っていなかった妹尾マネージャーの姿があった。 「棚卸の後で、何かと忙しいだろうと思ったからさ」  確かに。今朝は薬の納品も多くて検品作業だけでもかなり手を取られているが、それを言うなら他の店舗だって同じことになっているはず。彼は土曜日の衝突を気遣って来てくれたのだろう。  まぁ、結論から言えば来てくれて大いに助かった。マネージャーの存在が緩衝材になって、十川先生も下山先生も仕事中に嫌がらせをしてくることはなかったのだ。  そして午前診が終わって鬼婆たちが休憩に入った後、さくらと篠原先生はマネージャーから話を切り出された。
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