通達

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通達

 これ以上の雰囲気の悪化を案じた妹尾マネージャーは、午後から自分が顔を出すつもりだった店舗へ篠原先生を行かせ、自分は丘町店へ居残ることに決めた。なるほど……私はパートだからこの店から動く気はない、と片方が言い切っている以上、筋が通ろうが通るまいが、出て行くのは篠原先生で決定なのだ。  しかし、ここまでわがままを言われておきながら、異動くらいしか手がないとはマネージャーも情けない。  いくら人手不足で猫の手も借りたい状況だとはいえ、上司がこのていたらくではこの会社はもうダメだとさくらは心底思う。従業員の暴挙を上の人間が止められないのでは、会社としてのガバナンスが正常に機能しない。  ……これはやっぱり辞めるしかないか。  こんな職場なんて、さくらだって未練はない。家のローンのことはとりあえず後で考えればいい。これ以上こんな鬼婆たちと関わり合いになったら、さくらの方が体を壊してしまうだろう。  そんなことを考えながら、さくらが3時間の長い昼休みを終えて薬局へ戻ってきた時のことだ。  受け付け脇のパソコンでは十川先生がコーヒーを飲みながら薬歴を入力していたが、あとの二人の姿が見当たらなくて、どこへ行ったのかと思ったら裏の休憩室にいた。  どうやら二人でこの一件についての話し合いをしているようだ。場所を休憩室にしているのは、鬼婆二人から同時に話をされてしまうと、マネージャーが口を開くタイミングすらなくなるからだろう。 「なんで向こうが被害者面してるのか、私にはさっぱり分からないし」  下山先生は同期だけに、妹尾マネージャーに対して敬語は使わない。まぁ、どれだけ砕けた話し方をしようと、その怖さが軽減されることは無いのだけれど。  下山先生が休憩室に入ってきたさくらの存在に気付かないはずはなかったが、彼女は全く遠慮なく話を続ける。 「被害者はむしろ私たちの方だからね。あんなに仕事のできない二人の面倒見させられて暴言浴びせられるなんて、こんなにひどい話はないからね。自分の無能を棚に上げて逆恨みするなんて、私だったら恥ずかしくてとてもできないけど」  そうなのだ。下山先生は基本的に仕事のミスに対してだけ嫌味を言ってくる。それ以外の気に入らないことは冷笑で済ませて、言質を相手に与えない。後々、非難されたときのことまで、彼女はしっかり計算しているのだ。 「でも注意するにしても言い方ってものがあるだろ?」 「ふっ、無能に無能以外の言葉をどうやってかけろと?」  さすが下山先生。セリフが怖すぎる。  妹尾マネージャーもドン引きした気配を醸し出していたが、白衣に着替えながら全身を耳にして会話を聞いているさくらの気配も感じたのか、気を取り直して説得を再開した。 「そう言わずにさ、もう少し優しく接してもらえないかな。そうでないと、例えあの二人の代わりを入れるにしても、また同じことになるし」 「だったら少しは使える子を連れてきてよ。私もデキの悪いのに教えるのなんて、もううんざりだもん」 「無茶言うなよ。後輩をデキる奴に育てるのも先輩の務めってもんだぜ」 「デキの悪いのに詰め込んでも、ムダだし」 「そうやって選り好みしていると、下山さんと一緒に働いてくれる人がいなくなるぞ」 「あらひどい。妹尾くんは私が悪いって言うんだ」  下山先生は得意のぶりっ子を発動し、えーんえーんと泣き真似をして見せていた。  正直なところ、見た目が特に可愛いわけでもない43歳の大年増が泣いたところで、男の庇護欲なんて湧かないはずだ。単に面倒くささだけが倍増するだけ。  ……あぁそうか、紹子ちゃんてばメンタル弱いんだっけ。  だから周囲の人から一緒に働きたくないって言われているのがショックで、泣いちゃったんだ。あーそう。かわいそーにねー、紹子ちゃん。  あまりの茶番にしらけすぎて、いつしか傍観者の心情になっていたさくらは、とうとうポケットに忍ばせていた退職届に手を伸ばした。  その時だった。  妹尾マネージャーのポケットで携帯電話が控えめな呼び出し音を奏で始めたのだ。それは仕事専用のガラケーだった。 「部長からだ」  そう断ると、彼は立ち上がり「はい、もしもし」と応答しながら休憩室を出て行った。  マネージャーという立場ゆえに、業務の最中に電話がかかってくることは日常茶飯事。当然、下山先生もそこを咎めることはなく、急にドライアイス並みの冷淡な表情に戻ると、ボキボキと大きな音を立てながら肩をまわしはじめた。そしてさくらに一瞥もくれることなく部屋を出て行く。  さくらも簡単に休憩室の掃除を済ませてから部屋を出たのだが、無人の待合室で通話をしていたマネージャーは、これまで見たことも無いような呆けた表情を浮かべていた。  頬は紅潮し、口は半開き。頭のネジが吹っ飛んでしまったんじゃないかと心配になるほど呆然とした顔で通話を終えたのに、その場に立ち尽くして動く気配がない。 「どうしたんですか?」  思わずさくらが声をかけると、彼はのろのろと顔を上げて言った。 「厚生労働省から通達……たった今、その内容の連絡があって……」  声がみっともないほどに震えている。それほどの重大な内容だったということだろうか。  さくらと同じく違和感を覚えたようで、下山先生も側に近づいてきた。 「どうしたの、妹尾くん?」 「これ、読んでみて……」  マネージャーは危なっかしい足取りで受付の中に戻ると、そこにあったパソコンを操作し始めた。すぐ隣で薬歴を入力していた十川先生も不思議そうな顔をして、コーヒー片手に様子をうかがってくる。  彼は会社のホームページから自身のページへ入ると、速報と書かれた回覧板に添付してあったファイルの中身を印刷してくれた。  それはたった二枚の紙きれだった。  小難しい言葉が並んでいるように見えたが、一枚目の用紙の右肩に『薬生総発0402第一号』と書いてあるのがさくらには妙に気になった。0402は多分今日の日付、4月2日という意味だろうが、薬生総発とはどういう意味だろう?
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