日常

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日常

 今日もしらなみ薬局丘町店の調剤室には怒声が飛んでいる。  事務員の須田さくらは調剤室の外、待合室の一角にあるカウンター内で処方箋をパソコン入力しているのだが、薬を待っている患者さんにまではしたない怒鳴り声が聞こえてしまうのではないかと気をもんでいた。 「あんたも一体何回言わせたら気が済むのよ。1錠分2なら一回分は半錠に決まってるでしょ!」  僅か6畳ばかりの狭い調剤室の中でヒステリックな声を上げているのは、監査(調剤し終えた薬の最終チェックのこと)をしていたパート薬剤師の十川(そがわ)先生で、怒られているのは去年春に入社したばかりの新人くんの篠原先生。  どうやら、篠原先生が棚から拾った薬は1錠分2朝夕食後の指示だから、調剤時に予め割っておかねばならなかったらしい。それなのに1錠、という言葉に引っ掛かり、ヒートのままにしていたのだ。 「すみません。すぐ作ります」  錠剤を受け取り慌てて半割し始める篠原先生の背中へ向かって、十川先生はさらに追い打ちをかける。 「あんたには患者さんを待たせている自覚ってのはある?! あんたのせいで何分のロスだと思ってんのよ!!」 「すみませんでした」  これはよくあるミスなのだが、篠原先生としては平身低頭、謝り続けるしかないようだ。彼は背は高いが細身で、草食男子の見本としてウィキペディアにでも顔写真付きで掲載したくなるほどのおとなしめの男の子。経験と迫力と体重が自分より上をいく十川先生になんて、逆らえるわけがない。 「本当にできない子よね! へらへらしてないで、ちゃんとやりなさいよ。そういえば昔もあんたみたいなナマっちょろいのがいたわ。あの子も男のくせにうじうじするばっかりで、全然仕事に対するやる気がなくて……」  60歳にもうすぐ手が届く十川先生はこの店の生き字引。二十数年前の開局当時からずっと働いているお局様だから昔の話をし始めると長いのなんのって。さくらはこの薬局に勤めるようになってまだ1ヶ月余りだが、彼女の昔話なら耳にタコができるほど聞かされている。  十川先生の傍らで監査をしていた薬局長の下山先生は二人の間に入って宥めるどころか、このやかましい声を聞きながら口元には冷笑を浮かべていた。御年43歳の独身女性。能面のようなのっぺりとした顔立ちの彼女は十川先生のように怒鳴り散らすことはないし言葉遣いも丁寧なのだが、それが性格のキツさを和らげるものではないということを、さくらはよく知っている。 「十川先生、そんなに怒っても無駄ですよ。篠原先生は覚える気も無いんだから」  ようやく口を開いたと思ったら、この通り蔑んだ目をして嫌みを言い出すのだ。ちょうど半分に割って分包した薬を監査台へ持ってきていた篠原先生は、強張った表情で「……すみませんでした」ともう一度頭を下げた。  背の高い男の子が背中を丸めて小さくなる様は、下山先生の嗜虐性を過度に刺激するらしい。右の口角を人間業の限界まで歪めた彼女は、氷のように冷たい声で命じた。 「あなたの顔って、見ているだけでイライラするんですよね。邪魔だから調剤室にはもう入らないでください」  監査の済んだ薬のカゴを渡された篠原先生は、その後昼過ぎに患者が切れるまでたった一人で投薬をさせられていた。  投薬業務は後で薬歴を書かねばならないから、全員の仕事量のバランスを考えれば一人に集中させるべきではない代物。しかし、下山先生は篠原先生が苦労することに関しては、一ミリたりとも良心が痛まないらしい。 「……須田さん、これ違います」  投薬カウンター下にどんどん積み上がっていく篠原先生の薬歴簿に気を取られていたら、今度はさくらが下山先生の不快感たっぷりな声に呼ばれてしまった。  さくらがたった今、入力したばかりの調剤録を眼前に突きつけられる。顔を殴られるのかと驚いたさくらが反射的にのけぞったら、早く持っていきなさいよ、とばかりに調剤録をひらひらと揺らされた。  あまりに感じの悪いやり口に絶句するが、しかし、肝心の間違ったという内容をさくらは教えてもらっていない。 「えーっと、どこが間違って……」 「……三行目、ベタヒスチンメシルじゃなくてベポタスチンベシル」  さくらの顔も見ずに言うのだ。それくらいいちいち指摘されるまでも無く見たら分かるでしょ、とでも言いたげな低い声音だった。 「あーあ、今度のも使えない事務員ね」  さくらの耳にも聞こえるよう、下山先生は大きめの独り言を漏らす。その声に怯えたさくらは、篠原先生並みに小さく背中を丸めて修正作業を行うしか術がなかった。
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