棚卸

1/4
23人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

棚卸

 2019年の3月31日は土曜日なので、元々が半日営業の日。だからクリニックの診察が終わった直後に店を閉めて棚卸しを始めることができた。これが平日に当たると確実に終電コースになるらしいから、今年は運が良かったらしい。  でもいくら早い時間から始めたところであの鬼婆二人がいる限り、問題なく終わるはずなんてなかったのだ。  棚卸は薬剤師三人が調剤室の中の薬を数え、事務員のさくらはコピー用紙などの消耗品や、待合室に僅かばかり置いてあるガーゼなどの医療器材を数えることになっていた。数値は各自が持つハンディタイプのバーコードリーダーへ入力し、ある程度溜まったところでそのデータをパソコンへ送る、というやり方だ。 「……トラベルミンを数えたのって、篠原先生ですよね?」  送られてきたデータを、途中経過ながらパソコン上で確認していた下山先生が冷淡な声を上げた。 「はい、そうですけど……?」 「トラベルミンは未開封があるのに106錠っていうのはどう考えてもおかしいんですけど」  さくらには何がおかしいのか分からない話だったが、後で聞いたところによるとトラベルミンは12錠で1ヒートだから、1箱が120錠入りなんだそう。それを彼は他のお薬のように100錠入りと勘違いしてカウントしたのだ。 「すみません、間違えました。126錠です」 「気を付けてくださいね」  気に入らない相手に注意するときのいつもの癖で、下山先生は頭を下げている篠原先生と目も合わせてくれない。それがどれだけ相手を無駄に傷つけることになるか、しっかり理解したうえでやっているのだから、本当に底意地の悪い人だ。 「あんた、前にもそれ間違えたでしょ。反省が足りないんじゃないの?」  十川先生はここぞとばかりにいびり始める。でも、丘町店にある錠剤の9割以上が一箱100錠入りなのだ。間違えるのなんて仕方がないとさくらは思う。それにたった20錠を数え間違えたくらい、大した誤差になるわけでもないし、患者さんに迷惑が掛かるものでもない。薬価だって1錠たったの5.8円。  どうしてこの二人はそこまでして新人くんをイジメようとするのだろう。 「篠原先生、すみません。そこの上にある箱が届かないんで取ってもらえませんか?」  さくらは調剤室の中へ首を突っ込み、篠原先生を呼び出した。患者さんの存在が無い棚卸中のいびりはエンドレス。あんな鬼婆たちにボロ雑巾みたいに扱われる彼を見ていられなかったのだ。  さくらの依頼を受けた篠原先生はその長身を生かして棚の上の、さらに奥にあった軟膏ツボの箱をひょいと取ってくれた。 「ありがとうございます。助かりました」 「いえ、僕の方がお礼を言わないと」  篠原先生はさくらにだけ聞こえるような小声で言うと、にこっと笑った。さくらが呼び出した本当の目的に、ちゃんと気付いていたのだろう。  しかし、二人で微笑みあっていたのを、お局様は意地の悪い目で見つめていたのだった。 「あーらあら、見ちゃったわよ。仲のいいことで」  にやけ笑いを浮かべた十川先生は、侮蔑を込めた目で話しかけてきた。 「須田ちゃんも男に色目使って仕事をさせるなんて、なかなかやり手じゃないの。見直したわぁ」  おそらく十川先生にとってはこれくらい、いつもの軽口の延長線だったようだ。さくらは怒る気力も湧いてこなかったのだが、しかし篠原先生にとっては聞き捨てならない言葉だったらしい。 「失礼ですよ、十川先生。須田さんに謝ってください」  これまで自分が何を言われてもじっと耐えてきた篠原先生だが、他人が巻き添えを食うのは許せなかったらしい。少々頼りない見た目の草食男子だと思っていたが、なんと男気のある好青年ではないか。  しかし彼に好印象を覚えたのはさくらだけであり、言われた方は真っ赤になって怒りだしてしまった。 「何なのよ、生意気な子ね!  あんたたちがでれでれした顔しているから悪いんじゃない。ねぇ、紹子ちゃん、あなたもそう思ったでしょ?」 「いや、色目だなんてのは十川先生の見間違いですよ」  同意を求められた下山先生は、珍しく十川先生の意見を否定した。 「え?!」 「だって、こんなのに色目使ったところで何の得にもなるわけないんですから」  ……あぁ、やっぱり、この人はそういう女。気に入らない相手に冷ややかな笑いを浮かべなければ生きていけない、最低な人。  心底呆れ果てたさくらは、この際だから反論しようと思った。  篠原先生が馬鹿にされたのだ。先ほど、さくらのために勇気を出してくれた彼のためにも、今度はさくらが矢面に立って戦うべきだ。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!