#3小さな恋の物語

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 翌日、真由は昇降口をくぐり抜けると、一心に職員室を目指した。力強くドアを開けると、まっすぐに顧問の席へと歩く。新島が真由の気配に気がついて顔を上げた。 「どうした、高橋」  真由は新島の問いには答えずに、退部届を差し出す。それを見た新島の視線が、封筒と真由の顔を往復した。 「ん~‥‥高橋。先生、単なる口癖かと思ってたよ」  新島は困ったように笑うと、眼鏡をくいと持ち上げた。  無言で立ち尽くす真由の頑なな表情に、ふっと息を漏らす。そして、「いいんだな?」と珍しく低い真面目な声が、真由の耳に響いた。  その声に一瞬怯んだが、真由は封筒からその手を離した。 「お世話になりました」  静かに一言だけ言い残し、真由は職員室を後にした。 「‥‥‥はぁ」  教室について、自分の席へ辿り着いた途端に漏れた深い溜め息。真由はあれほど重荷になっていた部活を辞めたというのに、これっぽっちもスッキリとしない自分に気がついた。 (‥‥何だろ、もっと軽くなると思ってたのに‥‥‥)  そんな真由の様子を不振に思ったのか、友人の芽衣子が声をかけてきた。「真由?気分でも悪いの?」 「え?」顔を上げると、心配そうに見つめる芽衣子と目が合った。ええと、と言葉には詰まったものの、真由は振り切るように笑顔を作ると何でもないと笑った。 「それよりさ、芽衣。今日、遊びにいかない?」 「え?部活ないの?」  不思議がる芽衣子ににっこりとして、真由が答える。 「ううん」  そして、真由が次の言葉を発したその時、教室に入って来る崇の姿が、彼女の目の端に映った。  何故だかその言葉を言ってはいけないような感覚に捕らわれたが、口をついて零れた音はもう止まらない。 「あたしさ、部活辞めたんだ」  代わりに、崇の足が止まるのが見えた。 「え!何で!」驚く芽衣子の声が遠く聞こえる。  真由は崇から目が離せないでいると、ゆっくりと顔を上げ、こちらに振り向く彼と目が合った。 「―――――!!」  真由がピクリと肩を震わせたのを合図に、ズカズカと崇が近づいて来る。真由の腕を掴んで教室から飛び出した。 「ちょっと!何?」  崇に引っ張られながら、何度となく立ち止まろうとするが、力が強くてかなわない。  職員室の前まで来て、ようやく彼が立ち止まった。 「退部届、今日出したのか?」  背中を向けたままの崇。けれど、その声で苛立っているのだけはわかった。 「そうだけど‥‥‥」真由の言葉を聞くや、崇が職員室のドアに手をかける。慌てて、真由が引き留めた。 「なに?なにする気?」 「退部届、取り戻して来る」  崇の台詞に開いた口が塞がらなかった。 「はあ?余計な事しないでよ!」 「お前がこんな中途半端なヤツだと思わなかった。辞めるとか一時の事で決めるなよ」  重たい声が上から降って来る。真由は崇のその物言いに、悔しさがこみ上げて来た。 「一時の事じゃない。いつも考えてた!私なんかじゃ務まらないし、辞めて困る人なんて居ないでしょう!!」  最後の方は叫んでいた。出なければ、泣いてしまいそうだったから。  なぜこんな所で、自分で自分を「役立たず」と言わなければならないのか。真由は悔しくて唇を噛み締めた。  ふるふると堪えた涙が溢れそうになったその時、崇の消え入りそうな声が聞こえた。 「‥‥‥が、困る」 「え?」流れた涙も忘れ、真由が崇を見上げる。 「俺が困るんだよ!モチベーション下がるし、もう直ぐ記録会なのにどうしてくれんだ!自己ベスト更新予定なんだぞ!」  言いがかりのような崇の言い分に、真由の頭は数秒程、思考が停止した。 「はぁ?なにそれ!私の知った事じゃないわよ!」 「っ!!だぁかぁら!お前がいないと意味ねぇの!」  意図が掴めず「何がだ」と問い質そうとした所で、ガラリと職員室のドアが開いた。  ピタリと二人の動きが止まり、職員室から現れた人影を見る。  眼鏡を持ち上げる新島と目が合った。 「高橋、お前鈍いなぁ‥‥‥。自己ベスト更新したら告るとかそういう流れだろ?どう聞いてもさ、な?崇!」  しれっと言い放つ新島の言葉に明らかに崇が固まった。 「なぁ!!な、何言ってんすか!」  瞬時に首もとまで赤くなった崇を、真由が驚いて見つめる。 「安心しろ、退部届は捨てておいたから。頼むからこんなとこで痴話喧嘩は止めてくれ、な」   痴話喧嘩という言葉に二人はやっと、自分達の状態を把握し、恐る恐る周囲を見回した。クスクスと漏れ聞こえる笑い声。  崇は真由の腕を掴むと一目散に逃げ出した。 わあわあと言い争いながら遠ざかる二人の後ろ姿を眺め、やってらんねえと新島が笑った。  人気の無い渡り廊下まで夢中で走り、崇はそこでやっと止まった。後ろ手に真由の腕は掴まれたまま。  真由は彼の上下する肩から、その横顔から、何となく目が離せなかった。 「‥‥‥部活、来いよ」そう一言だけ言い、崇の手は真由の腕を離れた。真由からの返事はなく、しんと冷えた静けさだけが二人を横切る。  心臓の音が、嫌に大きく聴こえた。  崇がそのまま立ち去ろうとしたその時、制服の裾が重たくなった。振り返ると、見上げる真由の視線とぶつかった。 「じゃ‥‥自己ベスト更新、約束ね」 「‥‥お、おう」  微笑んだその顔に崇が見惚れていると、始業を知らせるチャイムが鳴り響いた。 「「あ」」二人は顔を見合わすと、慌てて走り出す。  真由は退部を取り消された事に肩の荷が下りたような、変に安心した気持ちになっていた。 必要とされている、そして、自分が必要としている。何故だか真由は自然と笑いがこみ上げて来た。 「やべえ、絶対間に合わない」  隣の崇が真由にペースを合わせて走ってくれているのが嬉しくて、真由の方から腕を絡める。 「あんたが、こんなとこまで走るから!」  今度は二人の楽しげに言い合う声と笑い声が、人の居ない廊下に響き渡った。 ‥‥‥そして当然、一時間目の授業に遅刻をして、担任に怒られた事は言うまでも無い。
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