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翌日、頼んでもいない朝がやってきて、また一日が始まる。学生なんて暇だろうと言う大人がいるけれど、高校生だってそれなりに忙しい。
特に二年生にもなれば、受験だって視野に入れて勉強しなくてはならない。学校、塾、部活にバイト。彼女と会うのも一苦労だ。千比絽は念入りに髪型を整え、鏡の中の自分に満足すると、鞄を背負ってリビングへ向かった。
朝ごはんは?なんて呑気な母親の声に、食べるよと行ってきますを一緒に応え、テーブルの上に用意されたパンを掴んで、千比絽は家を出た。
歩き慣れた道を歩き、乗り慣れた電車に揺られ、学校へたどり着く。次々に校舎に入って行く生徒達を眺め、千比絽は思った。
「食べられに行くみたいだ」
昇降口で靴を履き替えていると、突然、襟首を後ろから掴まれた。
「!ぅわあ!」振り向くと、部活の顧問が立っている。
「新島、先生。何ですか」
「何ですか、じゃないよ、河上。お前、自分が陸上部だって事、忘れてないか?」
千比絽が一瞬きょとんとして黙り込む。
あぁ、忘れていましたと言わんばかりのその表情に、新島はわざとらしくため息をつく。そして眼鏡を持ち上げ、職員室と言って前を歩き出した。 「なぁ、河上。女に現を抜かしてないで、部活にも顔を出せ」
職員室に着くなり、不躾な事を言い出した顧問に、千比絽はあり得ないと首をふる。恐らく、というより絶対に漏らしたのは崇の奴だ。
相原崇は、中学からの友達で、千比絽にとっては、唯一の親友と言えた。
年上なんだってな、紹介しろ等とうるさい新島の言葉を遮り、千比絽は面倒臭そうにこう言った。
「僕、向いてないみたいなんで、辞めます」
「向いてないって、おおい、河上君。それは一度でも、まともに向き合ったヤツの言うセリフだろう?」
「じゃあ、興味ないんで」
実際、そうだった。崇に誘われるがまま入った陸上部。対して興味はなかった。陸上だけじゃない、千比絽はこれまで心を動かされる程、興味を持つ物事に出会った事がない。つまり、今の所千比絽の心を震わす事が出来るのは、咲だけだった。
新島は唸って顎に手を置く。分かりやすく考える素振りを見せて、聞かなかった事にするからと手を振った。千比絽はなにも言わずに職員室を出た。
教室に向かう途中ふと、向き合ったヤツのセリフという顧問の言葉が脳裏に甦る。
廊下の窓から空を見上げると酷く濁っていて、何にも手が届かないんじゃないかと錯覚した。
何事にも興味の湧かない自分は、何かが欠けているのだろうか。もやもやとした物を抱えながら、千比絽は思わずにはいられなかった。
でも、それって悪い事?
咲に頭を撫でられた感触を思い出す。やっぱり子供だな、と千比絽は苦笑した。
教室に入り鞄を机に投げ出すと、真っ直ぐに崇の方へ向かって歩き出す。千比絽の表情を見た崇が、先に口を開いた。
「悪い!」
千比絽が何を言いたいのか、崇は解っているらしい。それもそうだ、千比絽は咲の事は、崇にしか話していないのだ。けれど、崇の顔を見たら、聞こうと考えていたことが、どうでもいい事に思えてきた。
「別に、そっちはいいけど。隠す事でもないし」
「え?じゃあ、何?」
崇の間の抜けた顔に、千比絽は大袈裟に吹き出した。
「何だよ、千比絽!」
「いや、自己新おめでとう。崇」
ぽかんと口を開けたままの崇が「あぁ」と間延びした返事をする。その様子が可笑しくて、千比絽はまた笑った。
水曜日の今日は部活がないので、放課後になると、千比絽は崇を遊びに誘った。
ゲームセンターで暇を潰し、小腹が空けば、ファストフード店に入った。
「今更だけど、今日バイトか咲さんとこじゃなかったのか?」崇がポテトを頬張りながら、視線を寄越す。
「どっちもなし。じゃなきゃ、誘わない」
「だよな」
ふと、どちら共が黙り込み、窓の外を見る。千比絽は窓際のカウンター席に座った事を、後悔した。
「どっちだと思う?」
急に問いかけられた崇が「へ?」と声を上げる。千比絽を見ると、彼は前を向いたまま、指を外に向かって指している。
その横顔はじっと遠くを見据えていて、まるでここではないどこかに居るようだった。崇が不思議に思っていると、千比絽がニッコリと笑って言った。「いや、まるでガラス越しに見る動物みたいだなと思って」
「それで、どっちが動物かって?お前、時々面白い事言うな」
「そうか?」
「うん。それより、今日のテスト、どうだった?」
どうでもいい会話が、どうでもいい雑音に消えていく。崇と居る時はいつもこうだ。 お互いの彼女の話しもあまりしないし、真面目な話題なんて振られた事もない。じっと黙ったまま、何時間も過ごす事さえある。
咲以外にも、居心地の良い場所があった事を、千比絽は久々に思い出した。適当に「有意義」な時間を過ごし、千比絽は崇と駅に向かった。その間もとりとめのない会話をしていたが、別れ際不意に崇が振り向いて言った。
「なぁ、千比絽。なんか見つかったか?」
「え?何が?」
崇はふざけたように振る舞っていたが、どこかその声色は落ち着いていて、千比絽は初めて「真面目な話題」を振られているんだ、と妙に神妙な気持ちになった。
「お前って時々面白い事言うじゃん。ああいう時、何時も思ってた。あぁ、またなんか探してる、って」
「僕が?」そう呟いたまま、何かを思案したように黙り込んだ千比絽。
「そう、興味のないふりをしてても、結局、お前もなんか探してるんだろ?」
ドキリとした。千比絽は今まで、そんな事は思ってもいなかった。しばらく二人して突っ立ったままいたが崇の、じゃ、また明日を合図に別れた。
・・・・僕が、探してる?何を?
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